(291)水戸天狗党の乱 第一章 | 江戸老人のブログ

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(291)水戸天狗党の乱 第一章(三章まで)

 

 元治元年(1864)3月27日、水戸藩の尊攘派(天狗党)が筑波山で挙兵したがそれを契機に騒乱が起きた。 天狗という呼び名は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が天保期(1830-44)の藩政改革を実施したとき、改革を喜ばない門閥派が、改革派藩士を非難したところから出ている。


 改革派には成り上がりの軽格武士が多かったから、成り上がり者が天狗になって威張るという軽蔑の意味がこめられていたと伝わる。
 文久3年(1863)3月、藩主徳川慶篤に従って京都に上った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、そこで長州、因幡、備前らの藩士と交わり、尊王攘夷の志を固めるが、幕府が攘夷を行えという天皇の命令を受けながら横浜一港の閉鎖さえ実行しえないのに憤り、 非常の手段をもって幕府に攘夷、具体的には横浜港を封鎖する決意を促すべきと考えた。
 

 藩地に帰った小四郎は、南部の郷校に拠る同志を誘い、また常陸・下野(しもつけ)の間をしきりに遊説して挙兵への準備を進めた。小四郎をはじめとする、尊攘激派、藩士、郷士、神官、村役人ら60余人が攘夷を唱えて同志を募った。 かれらは、天狗党と称されたが、数日にして150人を越したという。天狗党(筑波勢、波山勢ともいう)は、水戸藩の町奉行田丸稲之衛門を総師とし、4月3日には、東照宮参拝のためと称し、下野の日光山へ向かったが、日光奉行がこれを拒否され、一部の者が参拝したのみで日光を去り、同国大平山(おおひらやま)に宿陣した。

 一方、門閥派の市川三左衛門らは、尊攘鎮派が主流を占める藩校弘道館の諸生(書生)と結んで反天狗派を結成(諸生党)、藩政の実権を握った。これを知った天狗党は5月末、筑波山に戻った。総勢およそ700人。この間、田中愿蔵(げんぞう)は別動隊を組織、栃木町(栃木市)を全焼させ、また真鍋(まなべ)宿などに軍資金を要求し、拒否されると放火、700人の罹災者を出した。
 

 幕府は追討の方針を固め、常陸・下野諸藩へも出兵を命じた。市川を陣将とする水戸藩兵(諸生党)も追討に加わり、幕軍・諸藩軍・諸生党は7月、下妻多宝院などで交戦したが敗れ、市川らは水戸城に入って天狗党の家族を虐待した。この頃幕府は田沼意尊(おきたか)を追討軍総括に任じて陣容を整え直し、筑波山に向かった。 天狗党は、攘夷の実行(横浜鎖港の実現)より先に市川らを討って家族らを救うことに決め、水戸城下に入ろうとしたが果たせず、これ以降、府中(石岡市)・小川(小川町)・潮来(潮来町)方面に屯集、水戸周辺で諸生党と戦った。

 このような情況を知った藩主徳川慶篤は、支藩の宍戸藩主松平頼徳(よりのり)を名代として水戸へ遣わすこととなり、これには用達(ようたっし)榊原新左衛門ら700人が同 行(大発勢という)、一行には途中から下総小金(こがね)辺に屯集していた士民数千人や、江戸に向おうとして果たせずやはり小金にとどまっていた元用達武田耕雲斎らも合流した。 しかし市川らが入城を拒んだため、頼徳らは那珂湊に移り、小川辺にいた小四郎らも応援に那珂湊へ来た。このため那珂湊では大発勢と天狗党が共同戦線を張り、市川らと対峙するに至った。


 市川らは田沼の率いる幕軍・諸藩軍の応援を求めて那珂湊を包囲、10月の戦いで榊原ら大発勢千人余が投降した。(頼徳は10月5日、幕命により切腹)。 投降 に反対した耕雲斎、小四郎らは脱出、北上して大子(だいご)村(大子町)に集結、千人余の一隊は耕雲斎を総大将として京都に上り、尊王攘夷の素志を朝廷に訴えることとした。

 大部隊は、総大将のもと、大軍師(山国兵部)、本陣(田丸稲之衛門)、輔翼(藤田小四郎、竹内百太郎)、天勇隊、虎勇隊、竜勇隊、正武隊、義勇隊、奇兵隊などを編成、11月1日大子を出立、下野・上野(こうずけ)・信濃・美濃を通り、越前新保(しんぽ)に 至ったとき、禁裏守衛総督徳川慶喜(水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男)率いる幕府軍の総攻撃のあることを聞き降伏、耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。


 一隊は慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)のニシン倉に監禁され、2月、武田耕雲斎・小四郎ら352人が斬罪、他は遠島や追放の刑に処せられた。現在、水戸の常盤共有墓地に彼らの墓がずらりと並ぶが、異様な光景である。また譲り受けたニシン倉庫も回天館に修復展示され見ることができる。

 これらの事件を知って興味を抱いた小説家の吉村明氏が詳細を調べて作品としているが、特に降伏してからの詳細について、その無念さを描き、秀作と思われるのでご紹介したい。筆者もまたこの事件について以前より調べており、特に最後の将軍であった徳川慶喜が名君であったか、あるいは冷酷な君主であったか、いまだわからないでいる。意見が分かれるところだが、あえて記しておきたい。

 那珂湊で局地戦に負けた武田らは軍議を開き、京都に赴いて素蘊奥上位に深い理解を示す一橋慶喜に真情を訴え、自分たちの身を朝廷の処分にまかせることに一致した。総勢はおよそ八百名となり、それぞれ職責を決め、次のような軍条例を決めた。

① 罪なき一般人をみだりに傷害殺害してはならない。
② 民家に立ち入り財産を奪ってはならない。
③ 婦女子を近づけてはならない。
④ 田畑作物を荒らしてはならない。
⑤ 上の者に黙って勝手なふるまいをしてはならない。
以上に反した者は死刑とする。
 

 まあ、そうとうに厳しい軍律をもうけた。
 浪士勢は、十一月十六日、まず上野の国の下仁田で待ちかまえていた高崎藩兵と初交戦、激闘の末、これを敗走させて大砲三門、小銃五十丁、甲冑六十ほどを分捕り、翌日、信濃の国に入った。
 

 三日後、浪士勢は
松本、高島両藩約二千の兵の攻撃を受け、苦戦を強いられたが、軍師の奇策が功を奏し、これを撃破した。
この二度にわたる浪士勢の圧勝によって、沿道諸藩は畏怖を感じ、浪士勢の兵力を千六百とも二千余とも誇張して伝えた。各般の豪商たちは、浪士勢の通過によって私財を失うことを恐れ、城下町を通らぬよう武田に願い出て、多額の金を献納し、また各藩も戦を避けようとして、攻撃することを控えた。


 浪士勢は、信州の馬籠から美濃路に入り、十二月一日には揖斐に入った。京都に通じる道には大垣、彦根の幕軍が待ちかまえていた。衝突は必至であったが、浪士勢はそれを回避するため京都に直進せず、現在の岐阜県から福井県に入り、京都への迂回路を通った。
 つまり冬の山路を福井の大野藩領に入り、そこから険阻な山越えをし、敦賀に近づいた地点で降伏し、捕らえられた。

                                続く


以上、ウィキペディアから引用