(286)戦場の兵糧 | 江戸老人のブログ

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(286)戦場の兵糧



秀吉の電撃戦法


 秀吉は、賤ヶ岳の合戦の前にも、電撃的スピード戦法で成功を納めていた。天正十年(1582)の、世にいう「中国大返し」である。山崎(京都府)の天王山(てんのうざん)で激突した秀吉と明智光秀(1528~82)との天下取りをかけた戦いだ。


 秀吉は備中(岡山県)毛利軍の高松城攻めの最中に、主君の信長が光秀に本能寺で殺されたことを知る。


 水攻めに成功し、落城寸前であったが、高松城主の清水宗治(しみずむねはる)の切腹を条件に急ぎ講話を取りまとめた。同時にどうすれば短時間で京都へ入ることができるか、その作戦を立てる。そして、中国大返しという賭けに出た。


 

 六月二日、早朝に本能寺で信長横死。


 六月三日、夕刻になって毛利軍と対戦中に秀吉は凶報を知る。


 六月四日、講話の成立により、水攻めで湖と化した高松城を小舟で出た城主の清水宗治切腹。


 六月五日、秀吉軍、この日は敵方の出方を警戒し動かず。


 六月六日、高松城を応援していた毛利軍が撤去。秀吉軍の「中国大返

し」始まる。の日は備前沼城に宿営。


 六月七日、早朝から二万五千の大軍が夜通し走り、翌朝早く播磨の姫路城に入る。




 一昼夜で55キロ(14里弱)の強行軍。姫路城は長浜城とともに秀吉の中国支配の拠点城だった。


 

 六月八日、姫路城に到着すると、すぐに入浴し、小姓集を呼びつけ「命令第一号」を出した。「家老どもに出陣は明日と伝えよ。城の天守で一番法螺(ほら)を吹いたら飯を炊かせよ。二番貝で人夫以下の者どもを出発させよ。三番貝がなったらすべての軍勢を勢揃いさせよ。俺が閲兵する。という切迫したものだった。入浴後に粥を平らげたところへ軍師の黒田官兵衛がやってきて「天下取りのチャンス」と進言。ここから秀吉は本気になったという。



山ほどの炊き出し飯



六月八日は兵たちを休ませ、次のような思い切った行動にでる。蔵奉行、金奉行を呼び、米の在庫高をたずね、8万5千石あるというと、秀吉は惜しげもなく全量を将兵に与えてしまった。


「特に足軽や弓を担ぐ鉄砲組の家族たちが、何よりも頼りにしているのが扶持米だ。その者たちには日頃の五倍とらせよ。せめて妻子に煎茶でもふるまえるようにという、俺の気持ちだ。


それだけではない。姫路城にあるすべての金銀も知行(所領)も応じて、惜しげもなく分配してしまう。これが秀吉一流の人心掌握術だ。


 将も兵も喜び勇気百倍となり、中国大返しのパート2でも人間業とは思えない強行軍を進んで決行したという。秀吉の頭の中には、「光秀さえ倒せば、天下は俺の手に入る。姫路城の兵糧米や金銀など少しも惜しくはない」との思いがあったはずだ。


 


 六月九日の朝、天守から貝が鳴った。おお釜を連ねて白米飯を山ほど炊き出し、全軍が食事をした。足軽などは、「これほどうまい飯を好きなだけ食えるのは、生まれて初めてだ」と言って狂喜したという。


 腹ごしらえがすむと、再び大返しが開始された。翌々十一日の朝には、摂津(せっつ)の天ヶ崎に到着。姫路から天ヶ崎までのほぼ80キロを2日で走破したことになる。


 走行中、秀吉はスタミナ強化に打って出ている。首にニンニクを貫いた輪をかけ、それを馬上でかじりながら指揮をとったという。ニンニクの強烈な臭気のもとはアリシンで、強い殺菌効果に加えて、体力アップや疲労回復の効果がある。強精効果効果の特殊成分であるスコルジニンも含まれている。



ニンニクと肉料理でスタミナ強化


 天ヶ崎で小休止をとり、さる禅寺をたずね、力をつけるため主君に対する弔意の精進職を今日でやめる。槍をとり太刀打ちできるよう、台所衆に魚鳥の料理を作らせよ」と命じた。


 光秀との合戦の前に、ニンニクに加え動物性タンパク質や脂肪をとり、精力をさらに強化しようとした。いかにも秀吉らしい食術だ。


 両者の決戦は山崎で行われた。山崎の周辺は、京都と大阪を結ぶ街道沿いの精米地形になっていて、大軍を動かすのはむずかしい。光秀はこの土地に秀吉軍を誘い込もうとした。


 ところが予想もつかぬほどの猛スピードで秀吉の大軍が目の前出現。決戦は六月十三日に行われたが、浮足立った光秀軍はあっけなく崩れてしまった。


 光秀は居城の坂本城に向かって敗走中に、山科の小栗栖(おぐるす)で藪の中に潜んでいた農民の竹やりで脇腹を深く突かれてしまう。観念した光秀は同行の家臣に介錯させて果てた。本能寺の変から十一日目であり、世にいう明智光秀の「三日天下」であった。秀吉の頭脳的な陣中食術が疾風のような「中国大返し」を成功させた。




毛利元就の食術


 兵糧はまず餅なり、と考え、将兵に第一は餅の入った袋、第二は焼飯の袋、第三は生米の袋をもたせた。


 元就は普段から餅が好きで、腹持ちがよく、体力強化にも役立つことを知っていた。常に手元に餅と酒を置き、城中にご機嫌伺いにやってきた者に好みを聞いて、下戸(げこ)には餅の効果を語って餅を与え、上戸(じょうご)には酒を与えた。


 白米飯、玄米飯共に100グラムで165カロリーくらいのものだが、餅にすると235カロリーにもなり、かなり高カロリーで理想的な兵糧といってよい。白米飯だと三時間で空腹となり、その空腹時に敵襲があったら、スタミナが続かず総崩れとなりかねない。


 第二の袋の焼飯は、味噌おにぎりを焼いたもので消化吸収が良い。餅腹で戦って空腹になったとき、その場で口に入れることができる。第三の袋に詰められた生米は、合戦が長引いた場合の炊飯用だった。




杉謙信の「熱飯(あつめし)」


 謙信の生涯は短かったが、激しい戦いの明け暮れだった。合戦が始まれば、自ら白刃をふるって敵陣に斬りこんでゆく壮烈な攻め方。


 旗印は「毘」だ。謙信が深く信仰していた「毘沙門天(びしゃもんてん)」の一文字をとっている。仏法と北方世界を守護する武神である。


「毘」の旗を先頭に疾風のように出現しては、びっくりして右往左往する敵勢を一気に蹴散らす。これが謙信の戦法だ。謙信は「毘」の旗印を領土拡張など、自分の野心のために使ったことは一度もない。武田信玄との有名な川中島の合戦は、合計で五回行われたが、どちらも手強く、決着はつかなかった。


 謙信の合戦記である『謙信軍記』によれば、信州の海野平(うんのたいら)への出陣に際して次のような軍令を出している。


「兵糧と炊飯の鍋を持ち、軍食をとぼしくしてはならない。あたたかな食を用意せよ。陣に帰る場合でも、上下の士とも常に身に着けておかねばならない。


 川中島での四度目の合戦(1561)では野戦に出撃する前、次のような命令を出した。


「それぞれの陣の火を消すべし。あたたかな食を持ち、馬には声を出せないようにさせ声を封じよ。




 あたたかい「お立ち飯」で戦意高揚


 謙信軍団の兵糧はほとんどの場合、炊いたあたたかい飯で、しかも白米が多かった。


 越後の豊かさと謙信の思いやりで、熱飯だと味が良いだけではなく、消化吸収もスムーズだから、即戦力となり、冬など身体も暖まり、戦意も高揚した。


 居城の春日山城は新潟県の上越市にある。謙信のふだんの食事はきわめて質素なもので、一汁一菜であったが、いざ出陣となると「お立ち飯」と称して大釜をならべ山ほどの白米飯を炊かせたという。すぐ目の前の日本海でとれる魚なども振る舞い、望みにまかせて食べさせたという。


 このため家臣たちは、飯の炊き具合で出陣を予知して勇躍したと伝わっている。地元の直江津駅では、謙信の「お立ち飯」を現代風にアレンジした駅弁が販売されていて人気がある。


「謙信は酒を好み、肴とてなくいつも梅干しばかりだった」と『名将言行録』にあり、また『雑和藻塩草(ざつわもしおぐさ)』には謙信の酒は静寂そのもので、一人で縁側に座り、小さな盃を用い、肴は梅干を好んだとある。しかし現代医学からすると、身体にいいの味方ではないだろう。



加藤清正の腰兵糧




 出陣に際し、腰に結び付けて携帯するのが腰兵糧。現代でいえば「腰弁当」で、略して「腰弁」といったりする。朝鮮出兵の虎退治で有名な加藤清正(かとうきよまさ:1562~1611)は、この腰兵糧をとくに重視した。


 合戦場では何が起こるかわからないし、何が起きても食糧さえ身につけておけば、飢えによる体力の低下からは解放される。


 たとえ大将といえども、乱戦、混戦になれば、自分の命を守るのは自分しかいない。命と兵糧は自前なのだ。陣中での清正の武備は厳重をきわめたが、とくに兵糧は常に腰から離さなかった。


 文禄の役(1592~93)で朝鮮に出兵した折のエピソードだが、清正が着陣したので、陣屋の下で待っていた近習の者が、清正が背中にさしていた大馬印を外して幡かけに置いたから、近習の者が草鞋を解き、すね当てをとった。


 清正は腰につけていた、いかにも重そうな袋を外し板の間に投げ入れた。するとドスンと家の中に響くような重たい音がした。


 不審に思ってよく見ると、米三升に干し味噌、それに銀銭が三百文も袋から出てきた。近習の者があきれて、「ここ十里、二十里のまわりには敵は影さえ見えないのに、これはどうしたわけでしょうか」というと、清正は「油断大敵ということがある。わしも身体を軽くしたいのは山々であるが、それをしたのでは、部下たちもみんな腰兵糧など身に着けないだろう。だから、身体は苦しいけれども武備を怠らないのだ」(『常山紀談』)




干し味噌


 清正の腰袋の中の「米」というのは干飯のことだろう。生米だと、いざ食用にする場合、鍋と水、火が欠かせない。火急の場合には間に合わないのだ。


 干し味噌も必要で、合戦になると汗をかくし、命と筋肉を酷使する。汗は体中の水分だけではなく、塩分まで流出させてしまう。戦いに塩気の補給は重要だ。干し味噌なら、戦うために必要な塩分に加えて、スタミナ強化に効果的なアミノ酸もたっぷりとれる。腰兵糧の携行は清正軍の兵糧策だった。




 たくさんの武将たちが食糧には相当気を使っている。確かに合理的だ。忘れていたが司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、「世界広しといえども、戦場で飯を炊くのは日本軍だけ」、と書いていた記憶がある。他の米食國はどうしていたのだろう。




『戦国の食術』 勝つための食の極意 永山久夫 学研新書