(285)ひらがな、かたかな
江戸時代といっても260年ほど続きまして、時代につれ事情も変わってくることはご納得いただけると思います。
細かい時代区分をするとかえって混乱しますから、おおざっぱに、寛永期(17世紀半ば)をはさんで江戸時代の前半、および江戸時代後半に分けて見ます。結論を先に言いますと、前半では識字率は江戸後半ほどではありませんでしたが、後半は異常に高かったとされます。
江戸時代の前半でも、江戸、大坂、京都などの都市部での識字率は高かった。そうはいっても農村部や町人の裏長屋などでは、もちろん「読み,書き、ソロバン」はできるのですが、庶民は「仮名書きだけ」が多かったんです。村の庄屋さんが漢詩を書いたりはしておりません。たまにはいたでしょうがそれは例外です。
現行の「あ、い、う、え、お」方式の仮名は、制度としては明治の教育制度から始まっており、それほど古くはないのです。じゃあ、それまではどうだったか? といいますと、変体仮名(へんたい・がな)というものを使っておりました。
日本語は「口頭」つまり「音」の言語でした。日本がまだ文字を持たなかった頃、人々は漢字を借りて文章を書くことを始めました。これで、自分の言葉(音)を文字という「目に見える形」にすることが可能となりました。漢字は一字一語を原則としています。また、一語は一音節です。これが(文法に基づき)語順が決まると文章となり、その結果、意味が理解できます。そうはいっても日本語にはまだ文体(文章のスタイル)がなく、日本語知識だけでは無理でして、手本とした漢文(当時の支那語)を知らなければ文章は書けなかったのです。
漢字の中からを日本語の発音に近いものを選び出し、「万葉仮名(まんようがな)」というものが生まれます。万葉仮名の別名を【真仮名(まがな)】といいます。漢字を「真字(【まな:と発音し、ほんとうの文字)】と呼ぶのに対し、「仮字(仮の文字:「かなと発音」と呼ぶのはここからです。
さて、平安時代のはじめ、新しい日本語表記の方法として(すべての音に)「かな」が作られました。仮名には二種類があり、万葉仮名に使われた漢字をくずした①「ひらがな」、それと字画の一部を省略した(あるいは一部を使う) ②「カタカナ」でした。
【漢字+カタカナ】の文章は、漢文の「訓読(日本語読み)」から生まれ、漢文にならって書きましたから「書き言葉」と「話し言葉」が違ってしまったひとつの原因になりました。これでは混乱が起きますから、明治時代を迎え「言文一致運動の結果」、【文体(文章のスタイル)、たとえば「一筆啓上」ではじまるとか、「拝啓」ではじまるとか】というものができ、なんとか日本語表記は全体の文章化に成功します。もっとも研究者によっては、ほんとうに日本語が、「そのまま」、「思った通り」に文章にできたのは、「昭和三十年代の週刊誌の出現のあとからだ」、との説もあります。
その一方で、【ひらがな文】は文書や記録や手紙といった実用性にすぐれ、和歌や和文という文芸の世界で独自の発展をとげます。自由に(漢字や漢文とは無関係に)日本語の音を表現できますから、実用的な文体(文章のスタイル)とか日常の感情表現に適した文体も生まれました。また文字が易しいため識字層を厚くしていきます。
【漢字+カタカナ】文章は、漢字が主人公で、カタカナはその補助に使ったのです。一方、「ひらがな文」は最初から①漢字としての文字と、②平仮名【漢字を草書化(くずした)したもの】とが対等、つまり、まぜ書きするものとされていました。
すこし混乱しますが、万葉仮名からひらがなが生まれる時に、草仮名(そうがな)というものができました。これは漢字なのにくずした独特の書体で平仮名とし、「平仮名」として使いました。漢字なのに平仮名として扱いました。
これらを「変体仮名」とよびます。統一規格があった訳ではなく、一音一文字というわけにいかず、いろいろな文字が「混ぜこぜ」となりましたが、マアマアそこそこ使えるものとなりました。
結論を言いますと、草仮名(そうがな)には①「漢字の草書それ自体」があり、加えて②「現在のひらがなに近いもの」もあり、さまざまな字体が混じっていたのです。
かなの字体そのものは、平安中期にすでに完成の域に達していたとは言われるものの、ひとつの音に複数の「文字」が使われていました。
前述のように明治になって「ひとつの音にひとつの仮名」が決められ、現行の「ひらがな」になったのです。ひとつの音にイロイロな文字が使われたので混乱しますが、馴れだけで「古文書を判読」するのは「それほど難しくない」、と本には書かれていますが、本気にしないほうがいいと考えます。筆者はすぐに諦めましたね。
江戸時代に、庶民の間に流行した和歌の世界のひとつに「小倉百人一首」があります。これをつかって、遊びとして江戸の仮名を読む手がかりにしてみます。こっちがテーマではないので何となく印象だけを・・・・・・お忙しい方は飛ばしてお読み下さい。
そもそも江戸時代の政治や社会の仕組みは、最初から農村、あるいは町人でも、上層部の住民が読み書きと計算の能力を持ち、この能力を条件に成立していました。たとえば、コレコレをしてはいけないという禁止や、指示を紙に記した触書(ふれがき)を、村や町に渡せば、村や町の全体に伝達されることになっていました。また、今年の年貢はコレコレと書いた文書を渡せば、村のほうで計算して個々の百姓に割りあて、それを集めて領主に納めます。
村とか町に一定数の読み書き、計算能力の持ち主が存在していることを前提としています。村の上層百姓の当主や家族が、あるいは町屋の主人やその家族が読み書きができても不思議でも何でもありません。
問題となるのは、それより下の階層の人々、つまり庶民の読み書きソロバン能力でしょう。
安政元年(1854)に日米和親条約を締結したペリーたちは『ぺルリ提督日本遠征記』をのこしていますが、その中に「書物が非常に多く売られている。日本人は文字が読め、知識欲が旺盛だったはず」と記しています。また「女性も読み書きに通じていた」と記しています。簡単に言いますと庶民レベルの読み書き能力の高さ、およびそれに支えられた書物の多さに驚いています。
古代都市トロイ遺跡の発見で有名なドイツのシュリーマン(1822~90)は、発掘の前の元治元年(1864)日本を訪れ『日本清国旅行記』を記し、その中で、「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している」と記しています。その他多くの訪日外国人が同じような指摘をしています。
明治元年に日本研究者(ドーア『江戸時代の教育』岩波書店)が日本人の識字率を男子が43%、女子が10%としていますが、これは全体の数字ですから、都市部の識字率はずっと高いと推理できます。同時期、フランス、イギリスなどはこの半分、あるいはもっと低いものでした。
信州埴科郡森村の中条唯七郎さんが書いた『見聞集録』に、弘化三年(1846)頃、四、五十年前と比べて自分が住んでいる「森村」がどのように変化したかを記していますが、面白い記述があります。下の文章をお読み下さい。
「昔は(自分の)村も無筆(むひつ=文盲)人が多く、今それを語っても誰も信じてくれないほどだ。私が二十二、三歳のころから素読(意味は分からなくてともかく文字を音読する。多くは「論語))が流行り、年季奉公人までも読むようになってから、今では村の人々は、俳諧(はいかい)、狂歌、和歌、さらには長歌(ちょうか)までたしなむ人が多くなり、まったく変わってしまった。しかしこのようなことは自分の村だけではなく、世間一般に見られる」
と記しています。農村で俳句、和歌などが楽しまれていたことがわかりますが、とんでもなく識字率が高かったはずです。
農村部での読み書き能力の向上は、俳諧や狂歌、和歌などをたしなみ、また各種の小説を読み、さらに生け花、茶の湯、書画などの芸道にまでおよびます。農村部に俳句や和歌のサークルがたくさん作られ、相互に交流を重ねていたとあります。時代はともかく、これらのサークルを、芭蕉だとか小林一茶(もともと農民)蕪村などが訪れていたと想像がふくらみます。俳諧などを指導して宿泊させてもらい、いくばくかの指導料を貰って旅を続けていたのでしょう。
十八世紀末の幕府からの触書に、「十四、五歳までは読み書きソロバンを習わせ、成人したら手習いや、読書はしてはいけない」、と諭しています。この理由は、「芸事が上達すると芸事で稼ごうとし、農業をやめて他の職業につこうとする」からだ、とのことです。
藩主側はある程度の読み書きソロバンは必要としたものの、これが進んで「遊芸」で身を立てて農業をやめようとするのを抑えています。幕末期の日本の識字率は、都市部ではおそらく90%を超えていたと筆者は推定しております。そうでないと辻褄(つじつま)があわないことが多すぎるためです。
引用図書 『大江戸世相夜話』藤田覚著 中公新書 『江戸のかな』樋口政則著 名著出版
