(226)江戸奉公人の心得 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(226)江戸奉公人の心得 


 商家の小僧さんたちはどんな生活をしていたのか、江戸の呉服屋だった「白木屋」日本橋店に残された古文書があり、詳しく判明します。大店(おおだな)の場合ということで、名称などは少し違ったかもしれませんが、どこの大店でも同じようだったと思われます。
 

 まず、奉公人は、江戸出身者ではありません。京都本店で採用者を決めておりました。白木屋の場合は創業者が近江の出身だったらしく、近江出身者の数が多かったとあります。

二種類あった奉公人 
 奉公人といっても二種類がありまして、ひとつが商品の仕入れ、販売など、つまり商いにかかわる奉公人があります。

 これに加えて食事の準備など雑用すべてを行う奉公人「台所衆(だいどころしゅ)」とか「男衆(おとこしゅ)」「下男」と呼んでいます。商売にかかわる奉公人と台所衆は、一生の間変わることがありません。台所衆はどこまで行っても台所衆、また商売関係のほうもどこまで行っても商売関係でした。なお、「男衆」は一部に江戸でも採用があったらしいのですがこれは例外でした。
 何しろ二百人ほどが、三百六十五日、二十四時間、食事も睡眠も、仕事も同じですから、精神的ストレスは相当深刻なものだったと思われます。当然ながら女性の奉公人はゼロでした。
 
江戸出身はいない

 支配役というのが白木屋日本橋店のトップでして、今で言うと支店長でしょうか、時代によって多少違いますが、【貫文二年(1662)~大正八年(1919)】の260年間に128人がトップになっています。うち九十六人が近江出身者で多数をしめているとか。また11人が京都の出身者だったとされます。

 

 当時の子供らは寺子屋教育を11歳~12歳で終了して、一応、「読み書きソロバン」ができるようになります。すると口入屋(くちいれや:職業紹介業)の仲介で、気の利きそうな子、心身健康、跡取り息子ではない「次男・三男から」選ぶ。場所は前に書いたとおり近江の長浜あたりが多い。
 

 そして集団で江戸に下ります。現在は東京中心で「上京」となりますが、当時は京都が中心ですから、江戸に下ることになります。

 さて無事に日本橋店に到着しますと、「子供」とか「子ども」あるいは「こども」と表記されまして手代たちに教わりながら、商売のイロハから学んでいくことになります。十五歳ごろ元服しますが、なにしろ現代の中学一年生にあたる年齢ですから、初めての江戸はなれません。また初めてのお店(たな)奉公は相当な負担だったようです。
 
 実は江戸に来てから、二年目にやめる「こども」が最も多い。『万歳記録』という帳面には、天保八年(1883)から明治十六年(1883)年の四十年余りの間に、奉公人たちがどういう理由でやめていったか?が明快となります。「仕舞登り」という形式上の円満退社が110が、また病気が理由の「病気登り」が82人、「病気登り」かつ「死亡」が64人、「家出」行方不明44名として店を辞めています。
 

 初年目の緊張も取れ、少しずつ店や江戸の様子にも馴れ始めた奉公人、無理が重なったのでしょうがチョッとした油断から病気になる者が多かったとわかります。
 

反対に最初の二年目を無事に過ごした奉公人のうち75%が35年目まで勤続しています。
 まだ体力的にも精神的にも大人になっていない、子供の奉公人にとって、懐かしい故郷や親のところに帰りたい気持ちは強かったでしょうし、病気になったときも心細かったことでしょう。
 
 ときどき反物を持ったまま店を逃走する不届きな奉公人もいました。店では恥ですから公にしたくない。ところがたいていは店のものが手分けして探し出すのですが、なんと火付け盗賊に捕縛された記録も残されています。イロイロ裏から手を回し、なんとか身柄を引き渡してもらっている。病気のため、として出身地に帰した者が多いのですが、心がけの悪い奉公人はたいてい「病気登り」による解雇となっています。


九年間は故郷へ帰れない

なにしろ江戸と近江は遠い場所ですから、そう簡単に「薮入り」という訳にはいきません。なにしろすべてが規則尽くめでして、故郷に初めて帰れるのは九年目でした。これを「初登り」といい、年齢では二十歳ごろの話です。

 では後は自由か?というとこれも決まりがありまして、二回目は十六年目までお預け、これを「中登り」といいました。

 その次は二十二年目の「三度登り」となり、その次の「隠居仕舞(しまい)登り」は、支配役まで勤め上げた奉公人が、江戸店を退職し故郷へ帰る。これは相当自由だったようです。以上の四種類でした。
 

 【登り】といっても、細かい決まりごとがありまして、該当者を年三回に分けて実施します。登りの日数、ご祝儀の路用・国許へ持参する土産物、旅装束、着替え、下向のときの江戸店へのみやげ物。四種類の登りでそれぞれきまっていましたが、当然これは店で支出します。偉くなるに従い自分で出す分が多くなります。

 日数についての決まりは、初登り 50日間、中登り、三度登り、は60日間でした。

上りは昇進へのステップ

 登りは単なる故郷への旅ではありませんでした、のぼりを終えることで日本橋店での昇進が約束されていました。「初登り」を終えて帰ってくると、そこではじめて手代になる仕組みでした。もっともそれ以上は実力と年功序列の組み合わせによる、狭い道で、単なる手代で終わる奉公人が多かった。これを「平手代」といっています。

 

 武家は当然として、商家でも十五歳ころに元服の儀式が行われています。「本元服」以前に、「半元服」の儀式があり、額の隅を剃って前髪を少し短くします。その後の「本元服」、を終えると、髪型は成人とまったく同じになります。いわゆる「町人まげ」を結って頭を剃りあげる。店が吉日を選んでめでたいお祝い事としていました。御馳走も出まして「ご苦労さん」という所でしょうか。


前もまったく変わる

 姿かたちだけでなく、名前もまったく変える慣習でした。元服すれば成人ですから呼び方も変わり「若衆(わかいしゅ)」となります。すなわち、こども若衆手代となります。
 ある程度の信用もできますから、一人で店の外に出かけることも多くなる。まあ、その分、江戸の街の誘惑も多くなりお店では精神教育にいっそうの力を入れていました。
 繰り返しになりますが、最初の二年が問題でして、「九年間を無事に過ごすことができたら」と小僧さんたちは我慢に我慢を重ねていましたが・・・・・・考えてみればすべての奉公人に平等だったとも言えるのではないでしょうか。


掛売り金の取立て

 この白木屋日本橋店の文書を研究された方が書かれたものを読むと、当時のシステムはほとんどが「掛売り」でして、今でいう「後払い」です。ところが信用がある客を選んで売っているのにもかかわらず、掛け金の取立てが難しい。
 仕入れとか販売の商売もそれなりに大変でしたが、江戸時代の商家は、「掛け金」の取立てが仕事のほとんどといっていいくらいでした。現代ですと、あたかも金融機関のようでした。

 

 例えば著名な大名宅、例えば伊達家に売り掛けがあっても、なかなか支払ってくれない。支払ってもらうための接待はあたりまえでして、飲食とかそれなりの女もつけたり、芝居見物とかもう大変ですが、接待だけ受けて支払ってくれない。何しろ税金はなかったし、大商人はもっとも儲かったはずですが、いつもヒヤヒヤしているような按配でした。

 越後屋呉服店は、今の三越ですが、「現金払い」ですから、ヨドバシカメラと同じでして、なるほど相当安く販売できたはずと納得できました。


引用本:『江戸奉公人の心得帖』油井宏子著 新潮新書