(225)シュリーマンを覚えていますか
トロイアの遺跡で知られるハインリッヒ・シュリーマンは、遺跡発掘の六年前に、世界旅行の途中、中国に続いて幕末の日本を訪れた。
一ヶ月という短期間の滞在にもかかわらず、江戸を中心とした当時の日本の様子を、何の偏見にも捉われず、清新かつ客観的に観察した。執拗なまでの探究心と旺盛な情熱で、幕末の転換期日本の実像を生き生きと活写し、興味つきない旅行記をのこした。
その中から、日本の本質を感じ取った部分かと、筆者が感じた箇所をご紹介させていただきます。多少編集しています。
もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されている。日本人は工芸品について、これ以上は蒸気機関が必要というところまで最高の完成度に達している。加えて教育は、ヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている。シナを含め、アジアの他の国では、女たちが完全な無知な環境に放置されているが、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。
もし文明という言葉が次のことを意味するならば、つまり心のもっとも高邁(こうまい:気高く優れていること)な憧れと知性のもっとも高貴な理解力のために必要とされる宗教――キリスト教徒が考えているような宗教の中心にある“核”などを意味するのであれば、(中略)
と記し、日本人の「文明力と高潔な精神性」に触れている。
また、それを邪魔しているのは政治システム、すなわち“封建制度”であり、特に自分たちの利益を守りたい大名たちがこれを邪魔していると見抜き、その後の「日本大変革」を予感したらしい。この国には政治は不要と見抜いたようだ。
トロイアの遺跡発掘という一大事業を成し遂げたシュリーマンが、慶応元年に幕末の江戸を訪ねていたという事実に驚く。
シュリーマンは1822年、北ドイツに牧師の子として生まれた。母親は小さな町の町長の娘で、教養ある女性だったが、シュリーマンが九歳のときに亡くなっている。一方、考古学に興味をもっていた父親は、幼いシュリーマンに、ホーメロスの叙事詩やポンペイの悲劇などを語って聞かせたという。
シュリーマンの感嘆すべき語学力はつとに有名だが(ある国の言葉を覚え、書き、話すのに六週間もあれば充分だった)、その天才ぶりは早くも十一歳のとき、たどたどしいながらも、オッデュッセウスやアガメムノンの冒険談をラテン語で作文した記録がある。
そうはいっても、シュリーマンの少年時代は決して恵まれたものではなかった。学校教育も満足に受けられず、わずか十四歳で小売店の小僧となって働きながら、簿記の勉強をした。その後、アメリカで運だめしをしようと、二本マストの帆船に乗り込んだのは十九歳のときだった。不幸にも船は難破し、海に投げ出されたシュリーマンはオランダの砂洲の上に打上げられ、九死に一生を得た。
そのまま、ドイツには戻らず、アムステルダムで細々と命をつなぐかたわら、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語等、次々にマスターしていった。
一方たぐいまれな商才にも恵まれ、二十四歳でアムステルダムの貿易商の職を得るや、早くも目を「東」のロシアに向けた。例のごとく猛烈な独学でロシア語を学び、わずか六週間後には、モスクワのインディゴ(藍色染料)商人たちと、其の国の言葉で商談をまとめた。その成果を足がかりにペテルスブルグに赴き、わずか一年で独立。自分の商館を開き、またゴールドラッシュのアメリカに銀行を持つなど、国際的な大商人となって、巨万の富を築いた。
ところが1863年、四十一歳のとき、年来の夢であったトロイア発掘を実現すべく、すべての経済活動を打ち切ってしまう。
1865年三月、シュリーマンは世界旅行をする。インドから海路、香港、さらに上海へと赴く。そこから日本へ向かった。シュリーマンの日本旅行記は、横浜港を離れ、太平洋上をサンフランシスコに向かう、船中約五十日の間に書き上げられた。その後、アメリカ東海岸からハバナ、メキシコを巡り、翌1866年、パリに落ち着き改めて考古学を勉強し、二年後に学位を取得した。
トロイア遺跡発掘に成功したのは1871年、日本訪問から六年後である。シュリーマンの業績は偉大だったが、シュリーマンの目的は、考古学もあったが、実際は莫大な宝物にあった、との説が有力となっている。
引用本:『シュリーマン
旅行記 清国・日本』ハインリッヒ・シュリーマン
石井和子訳
講談社学術文庫 2010年 第35刷
