(222)参勤交代の費用 | 江戸老人のブログ

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(222)参勤交代の費用

 

 さむらいは、幕臣であろうと、大名の家臣であろうと、自由に旅をすることはできなかった。なぜか?もし留守の間にお家に事があれば、「武士の一分(いちぶん)」が立たない。
 

 例外としては公用の旅、それに藩主の参勤交代に従う旅に限られます。そうはいってもそんな機会に恵まれるサムライは、宝くじに当たるくらい少ない。そんな訳で、殿様の行列の一人に加えられ「花のお江戸」を眼にすることが決まった若いサムライなどは、もう躍り上がって喜んだそうであります。

 

 さて、その殿様の行列、つまり大名行列、錦絵なんかに描かれている、あの華麗さを思われるでしょうが、「したにぃ、したにぃ」なんて馬鹿馬鹿しいことはやってられませんで、あれは見物人がいるときだけ。まあ、デモンストレーションです。
 

 だいたいが一日に、八里から九里(およそ32~36キロメートル)歩かないと、旅にならず、あんなことやっていては遅れるばかり。江戸や国許(くにもと)にはいるとき格好をつけただけです。

 

 参勤交代の道中は、その家臣たちにとっては、転勤です。しかしですね、新幹線なんてないですから長い時間がかかる。参勤交代は藩主にとって莫大な出費となりました
 道中に要する時間は、例えば鳥取藩の場合は二十一泊、盛岡藩は十一泊か十二泊、途中に海路のある土佐藩や熊本藩では、まず一ヶ月の宿泊が、(順調な場合の)目安とされたとの記録があります。
 簡単な算数ですが、所要日数と、行列の人数が経費にかかわってくることになりますな。人数が多ければそれだけ宿泊費がかさんじゃう。とうぜん人数が増えれば荷物も増えまして、その運送費も増えます。

 

 行列は藩主と家臣団、その家臣に仕える奉公人、藩が雇った足軽、中間(ちゅうげん),小者といった奉公人たち後には経費削減目的から、『通し日雇(とうしひよう)』という人足が臨時雇いで使われます。それに加えまして荷物をリレー式に運ぶ、宿継(しゅくつぎ)人足から構成されておりました。
 
 馬鹿馬鹿しいほど大所帯の「転勤旅」ですが、前に述べたように、地方の武士には生涯に一度か、二度の限られた旅行なのでありました。
 筆者が学生の頃、羽田空港へ行きますと、出発ロビーで諸外国へ出かけるサラリーマン、アメリカくらいでも多くの関係者が見送りに来ておりまして、「バンザーイ!」なんて日の丸掲げて三唱しておりましたね。これって高度成長期の、ほんとの話なんですが、高校生の方に話したら「ウソだぁ!」と。すると江戸期はもっと希少な旅行チャンスだったのではないか。

 

 参勤交代というやつは、人質作戦と大名を経済的に苦しめる目的がありましたが、諸藩が見栄をはるのに金を使いすぎるのもナンカナァ?と、幕府から一応の基準が令されておりました。安永四年(1775)の令では、たとえば十万石級の大名ならば、馬上十騎、足軽八十人、中間(ちゅうげん)百四十人から百五十人、合計二百三十人から二百四十人というところですが、主君の入る風呂桶や、漬物桶などや漬物石、茶道具、鳥かごだのを持参する大名もあり、とにかく大人数になる。多分に示威効果を期待したためと書かれております。
 

 大名行列には、その藩、その藩のしきたりみたいなものがありますが、まあ実用性はありませんで、みな似たり寄ったり。この行列を江戸の娯楽に飢えた方々が弁当持参で見物をするといった具合というのであります。

 では、しめて幾らかかったか?もちろん信頼に足る正確な記録はないものの、かなり正確な推定は可能でして、たとえば土佐二十四万石の場合、四代藩主・山内豊昌(やまのうち・とよまさ)の代、貞享元年(1684)の東海道・参勤交代の費用は銀七十一貫七〇〇匁、金にすると千二百両。当時の一両は現代感覚では三十万円ほど(参考・日本銀行金融研究所貨幣博物館HP)にしますと、三億六千万円といったところでしょうか。

 

 参勤交代というのは、往路と復路がありまして、どっちかをケチるというわけにも行かない。大名にしてみますと、一年おきにこの出費がえんえんと続きますから、幾ら領民から搾り取ったとしても足りません。大名だって悲鳴を上げるどころか、泣き出す大名もいたんですね。
 出羽庄内(でわ・しょうない)十四万石の酒井忠徳(ただのり)は、安永元年(1772)、はじめて自分の領地に入ることに。そのとき、たまたま手許不如意(てもとふにょい:現金無し)に陥った。そこで旅費の半額を庄内から送金させ、中途で受け取る手はずでしたが、そのカネが届かぬうちに手許の金がなくなり、福島で行列が立ち往生します。この宿に滞在を続け、カネが届くのを待つほか道がなくなった・・・・・・と家臣が藩主に告げたとか。
 黙って聞いていた当年十八歳の藩主忠徳は、突然はらはらと落涙したといいます。江戸と庄内の百二十里あまり、たったそれだけの距離を旅するカネに事欠くようでは、とうてい軍役は勤まらんじゃないか?と、泣いたそうであります。

 

 ともかく、参勤の途中の出費は大名泣かせ、藩の財政の二割ほどがこれに割かれたそうであります。うち、人件費の占める割合が最も多かったとか。なにせ、食料などもすべて自前、漬物桶に漬物石まで持参する。米なども持参した自前だし、賄い方(まかないかた)という料理人も同行している。

 早い話、殿様は素泊まりですが、八代将軍吉宗の頃からは、本陣(大名などが泊まる宿)には一から三両のご祝儀(90万円ほど)、また家来たちは旅籠に宿泊したから、これは食事代が必要、おまけに翌日は相当数の弁当が必要となる。大雨のため川留めでも続けば、宿泊費用はかさむばかり、担当者の顔色が青ざめてきます。
 

 もっとも宿場のほうから見ると、大名はまことにありがたい存在、この費用で通常の道路などの管理費は自分たちで賄ったらしいのであります。経済効果は絶大でした。民は潤ったのであります。
 大名行列をもっとも嫌ったのは、実は関所の役人たちでして、とにかく数が多い。これが全員、通り過ぎるまで「後番所から下座(つまり土下座です)」してジット待つ。人数が多いうえ、大名の数が多いから数時間は続く。「いい加減にせいよ!」でしょうね。

 

 大名に負担が大きすぎた参勤交代、幕末のゴタゴタ期に入りますと、幕府が大名から金を借りる。見返りに「三年に一度の参勤でOK」とし、ついでに「奥方様もお子様も国許にお帰り頂いても結構でございます」、ということになった。考えてみれば大名のご正室とか子供たちはずっと260年ほど江戸住まいでして、明治になってからの廃藩置県が、思ったほど混乱しなかったのは、こういうことも背景にあったんじゃないか?と指摘される方もおりますね。それにしても江戸時代、ひとびとはよく歩きました。


引用本:『大江戸さむらい百景』渡辺誠著 学習研究社