(221)大震災の傾向と対策(その2)
前回に引き続き雑誌文藝春秋の東日本大震災特集にある、故吉村昭氏の地震に関する著書2冊から、お役に立ちそうな箇所をランダムに書かせていただきます。
(地震に関する)執筆を終え、単行本として出版された後、震災記念日の九月一日になると、震災番組を組んだテレビ局から必ず出演依頼があった。そのような場所に行くことには気が進まなかったが「関東大震災」を書いたものとして、自分の知りえたことを一般の人にも知って欲しいという義務感から、私はテレビ局におもむいた。
スタジオには東京都の防災責任者が、有識者と共にいて、それぞれ発言し私も意見を述べた。(中略)私は特に東京都防災責任者の言葉に底知れぬむなしさを覚え、口を開くのも億劫になった。それは震災後に出版された「震災豫防調査会報告」という報告書をまったく眼にしていないことを知ったからである。もっともこの報告書は、「予算がないから十分な量の出版はできないものの、岩波書店に頼んでおくからよろしく・・・・・・とか、もし、この報告書の内容に価値を認めていたのであれば、お知り合いにもご宣伝いただければ有難い」、といった極めて真面目な内容だった。
報告書は「地震編」「地変と津波篇(タイトルの旧字を簡略化)」「建築物篇(上下)」「建築物以外の工作物篇」「火災篇」の全五冊からなる大判の箱入りの書物である。私のような素人でさえ入手して書架におさめてあるのに、関東大震災について読まずに語るのは不可解であり、防災責任者は、何を根拠に地震対策をするのか、心もとなさを感じた。(中略)それきり私はテレビに出ることをやめ、新聞、雑誌に関東大震災について書くこともしなくなった。
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この報告書は、関東大震災以降、理学博士・寺田寅彦氏をはじめ、当時の一流の学者たちが、それぞれの専門分野で震災について徹底的な調査報告を一年半にわたって推し進め、それをまとめた報告書である。寺田寅彦氏は「今後起こるだろう地震時の教訓として欲しい」と切々として訴えている。
関東大震災は、甚だしい家屋の倒壊をひき起こしたが、それによって起こった火災が猛威をきわめた。
東京市の43.5%にあたる1048万5474坪という広大な地域が焼き払われ、全戸数48万3千戸のうち30万924戸が焼失、死者・行方不明者(圧死・溺死を含む)は6万8660名に及んだ。
火災について報告書に取り組んだのは、理学博士中村清二であった。
まず、発火原因について、中村博士は、(昼時の炊事の七輪からは一件しか確認できず)薬品の落下によるものが四十四個もあると指摘している。学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局にあった薬品類が、棚などから落下して発火した。
ことに学校からの出火が最も多く、東京高等工業学校、日本歯科医学専門学校、明治薬学専門学校、陸軍士官学校予科理科教室、東京帝国大学医学部等、十七箇所から出火した。
中村博士は発火性の薬品が、振動で棚から落下せぬよう工夫することが絶対に必要だと強調している。
生かされなかった江戸大火の教訓
昭和53年6月12日、マグニチュード7.4の宮城沖地震が起きた。そのとき東北大学理学部の建物から煙が出ているのを吉村氏はテレビで観たという。そこで東北大学に問い合わせてみると、「地震と東北大学化学教室―宮城県沖地震の被害とその教訓」と題する櫻井秀樹氏の論文をFAXで送ってくださったそうだが、これによると、出火原因は薬品の落下で、氏はその落下を防ぐよう工夫することが肝要だと記しているという。
関東大震災当時よりもはるかに薬品の多くなっている現在、中村博士の教訓は今でも生きている。「地震災害の予防責任者」は、多くの生命を守るために、「薬品落下防止の対策」にただちに手をつけるべきだ。(筆者の亡母は「地震だ、火を消せ!」はウソと自分の経験からよく語っていた。)
神戸大震災の場合の発火原因はなんだったのか、薬品以外の思わぬものもあったかも知れず、十分に突き止め、今後の教訓にしなければならない。現在都市部では都市ガスは一定以上の揺れに対応してガスの供給が自動的にストップする。電力会社もブレーカーに揺れを感じたら自動的に供給を停止するシステムを急ぐべきだ。阪神大震災の火災は、揺れが収まって通電を開始して直ぐに崩壊していた建物内の電化製品のうち、熱量の多いものから崩壊した家屋などに延焼している。
第二に中村博士は、延焼を促した最大の原因は、避難者の携行する荷物であったと指摘している。人々は家財を荷馬車や大八車に載せたり、背負ったりして逃げまどい、路上は人と荷物によって充満した。それらの荷物に引火し、人々はそれらの荷物や大八車などに逃げ道をふさがれて焼死した。火勢はさらに盛んになっていったのである。
中村博士は「この問題は非常に重大であり、世の人々の注意を喚起し、救済方法を講じることが大事だ」と訴えている(原文は旧仮名づかい)。
博士は荷物と火災についての対策が、江戸時代のものより劣り、江戸時代の教訓が「まったく生かされていなかった」と嘆いている。
江戸時代、江戸の町はしばしば大火に襲われ、幕府は対策に腐心し、結局もっとも危険なものは、火事の折に非難するものが、家財その他を積んで引き出す大八車と断定した。大八車は道路をふさぎ、火消しの動きを阻害し、非難するものを身動きできなくする。さらに積んだ荷物とともに大八車に引火し、それが延焼の媒介となっていく。
幕府は出火時に大八車を引き出す者を厳罰に処すると警告し、宝暦十年(1760)の大火の後にも、
「出火之節 建具並諸道具等 大八車ニテ積候儀之有候ニ付 往還通路妨(さまたげ)ニ相成候。 前々モ相触候処不届至極ニ付 自今見付次第召捕」と火事のときは大八車を見つけ次第召し捕るぞ、と当人はもちろん家主も処罰すると警告している。
関東大震災では、家財その他を積んだ荷馬車、大八車が道路、広場、橋にあふれ、消防隊の動きをはばみ、それらの荷に引火して、たとえば避難所であった本所の被服廠(ひふくしょう)などには家財とともに四万人の避難者が入り、それらの荷物に引火して実に九十五%の人が焼死した。
東京大空襲のとき、私の家(作家・吉村昭氏宅)も焼けたが、焼夷弾がわが家と周辺に落下したとき、食料品・衣類を入れたリュックサックを背負って外に出ようとしたとき、家の奥から出てきた父が「荷物など担ぐな、手ぶらで逃げろ!」と怒声を浴びせた。父は火の怖さを知っていたのだ。
現在、地震の折に備えて、非常持ち出しの品を入れたリュックサックを用意しておくのが不可欠とされているが、中村博士は、それらが都市を炎で覆う危険物としている。それらは延焼の媒介物で、多くの人を焼死させる発火物である。大地震の非常用リュックは危険である。
着のみ着のままで逃げた人たちは、少なくとも二十四時間過ぎた頃には、食物、水を口にし、餓死したものは一人もいない。
関東大震災での大八車、荷馬車は、現在の車(自動車)である。積んでいる荷物も危険だが、車はそれぞれにガソリンを内蔵し、車そのものが発火物である。
消防車、パトカー、救急車は、(および自衛隊車輌)は完全に動きを止められ、伸びて来た火が車に引火すれば、つぎつぎに車は火に包まれ、動きのとれぬ人を焼死させ、火は果てしなく伸びていく。(東京都では非常時には環状七号線の内側は全面通行止めとしているが、まことに正しい判断と著者は思う)
地震対策に取り組むものは、市民に対して自動車が最大の危険物であることを日ごろから警告しておかなければならない。このルールを無視するものは市民の敵として「見つけ次第召し捕」るほどの処置をとる必要がある。
日本人の沈着さ
「関東大震災」執筆のとき、イギリスの脚本家スキータレツという人の手記を入手した。この人は来日後、大森のホテルに二ヶ月妻とともに滞在し、地震の発生で恐怖に駆られ、この人は、妻と抱き合い、狂ったように泣き叫ぶ妻を抱えてようやく広い空き地にたどり着いた。そこには多くの人が避難していたが、その折の情景について、彼は次のようなことを手記に記している。
「日本人の群集は、驚くべき沈着さをもっていた。広場に集まった者の大半は女と子供だったが、誰一人騒ぐものもなく、高い声さえ上げず涙も流さず、ヒステリーの発作も起こしていなかった。すべてが平静な態度をとっていて、人に会えば腰を低くかがめて日本式の挨拶をし、子供たちもおとなしく母親の傍らに座っていた」
阪神大震災の罹災者の態度は、関東大震災の折にこの外国人が眼にした日本人のそれと同じである。(吉村昭氏はすでに世を去られていたものの、東日本大震災の場合も同じであった、と筆者が勝手に書き加えておきます)
引用文献:雑誌『文藝春秋』2011年六月号など
