(162)鬼熊事件
時代の変わり目には奇妙な大事件がしばしばおきるという。大正から昭和にかけ、有名な鬼熊事件が発生した。どんなものだったかを報告させていただきます。
関東大震災からのち、世情は混沌とした。震災の復興景気で好況だった政財界も急速に弱体化し、昭和初期の金融恐慌の兆しが見え出した。政界でも憲政会、政友会の二大政党間で政争が繰り返され、汚職が相つぎ、共産党の創立など左翼も活発だった。都市・農漁村で争議が続発、政府の弾圧も強化され、威張っている軍人、官僚、警察関係者に対し庶民の反感が高まっていた。新聞にも暗いニュースが目立った。
そんなおり千葉県内の寒村で起きた殺人、傷害、放火事件が世間の注目を集めた。事件発生直後は小さな記事だったが、犯人が山中にのがれ警察の網の目を巧みに避けて逃亡を続けていることが明らかになるにつれ、読者の興味は高まり、日本中がこの話題に飲み込まれていった。
容疑者は、岩淵熊次郎(35:いわふち・くまじろう)という荷馬車引き。千葉県香取郡久賀村の小作農の次男として生まれたが極貧家庭で、小学校も欠席しがち、三年で学業をやめ、手紙も書けなかった。十歳で村の豪農五木田太郎吉の作男として雇われる。大正も末期だったが、千葉県の片田舎の寒村では生活は依然として貧しく、村民の大半は掘っ立て小屋同然の家で辛うじて飢えをしのいでいた。
熊五郎は25歳のとき馬車引きになった。二歳年上の女を妻とし、五人の子の父になっていた。邪心のない男で優しく村人に好感をいだかれていた。背は低かったが筋力が強く米俵二表をかついだ。仕事熱心で約束は必ず守り、親切で優しかった。「争いの仲裁」などをしながら旧主の五木田太郎吉(憲政会系)の選挙運動を手伝ったりしていた。
熊五郎は女にだらしがなかった。村の居酒屋の孫娘“おけい”という酌婦と馴染みになった。“おけい”は二十三歳、年上の女房しか知らなかった熊五郎は、若い女体に夢中になった。毎月に米を届けたりして相当貢いだ。
関係は四年ほど続いたが、熊次郎は、もう一人の女に手を出した。これは、柳橋信一という男の妻おけんで、夫婦喧嘩の末に家出し、「吉野家」という旅館の女中となった二十八歳の女だった。おはなという名で同旅館に勤めているとき熊次郎と知り合った。
おはなは、旅館に前借金があると熊次郎をあざむき、これを信じた熊次郎は、商売道具の馬を売り払い、五十円をおはなにあたえた。熊次郎は、彼女を旅人宿経営の土屋忠治方に預けたが、夜毎に訪れる熊次郎を忠治夫妻は不快がった。これに立腹した熊次郎は、忠治夫妻と仲たがいし、“おはな”をさらに村の荒物商・岩井長松方に移させた。
ところが“おはな”は、岩井長松方に七日間いただけで、夫の柳橋信一のもとに帰ってしまった。失望した熊次郎は、やがて“おはな”は、前借金でしばられていた事実はなく、預け先の土屋忠治、岩井長松が、柳橋信一と通じて、“おはな”を柳橋真一のもとに送り返したことを知り、おはな、信一、忠治、長松にたいし深い恨みをいだいた。
当然ながら、「おけい」は熊次郎をうとんじるようになり、彼から金品を受け取りながらも、その年の三月ごろから密かに村の若い農夫、菅沢寅松と夜を共にするようになっていた。熊次郎はそのことを知らず、詐取した馬の代金の半ばを「おけい」に与えたりしたが、やがて寅松の存在に気づいた。6月25日夜、おけいの家を訪れた熊次郎は、抱き合っている「と寅松」の姿を見た。
激怒した熊次郎は雨戸を破って室内に入ると寅松の腕をつかんだが、寅松は逃げ切った。熊次郎は、戸外に走り出ようとした「おけい」の髪をつかみ、殴り続けた。かれは「おはな」につづき「おけい」にもそむかれたことが腹立たしかった。すきを見て、“おけい”は村の駐在所へ走った。それを知った熊次郎は、自ら駐在所に出頭、向後国松巡査からきびしく説諭された。
熊次郎は孤立した。おはな、おけいの二人の女に分不相応の贈り物をしながら両者からあざむかれ、しかも女を取り巻く者たちから冷たい扱いを受ける。多情ではあったが純情な熊次郎は、周囲の者から愚弄されていると強く意識した。
7月7日、午前10時頃、おけいが麦畑で野良仕事をしていると、熊次郎が姿を現す。そして“おけい”を上州屋へ引きずるように連れ戻すと、午後四時ごろまで寅松との関係を執拗に責めたてた。おけいの心は冷え切って、激昂した熊次郎は包丁を突きつけて殺すと威嚇した。これを見たおけいの祖父啓十郎が駐在所に走った。
向後巡査がすぐに駆けつけ、熊次郎を脅迫罪の現行犯として逮捕、多古警察署に連行、また取調べで売馬代金の詐欺を犯していたことも発覚、八日市場裁判所検事局に送られた。
送検を知った村の有力者で、熊次郎の旧主だった元県議、「五木太郎吉」が熊次郎のために奔走した。努力が実ったのか、八月十八日熊次郎は、同裁判所で懲役三ヶ月、執行猶予三年の刑を受け釈放された。四十日間の勾留生活に落ち着きを取り戻した熊次郎は、翌日夜には五木田のもとを訪れ、礼を述べ、五木田も熊次郎を諭して祝い酒を振舞った。
そのとき、寅松が姿を現した。熊次郎は、二人の仲がさらに深まり、おけいがその夜も寅松と共にすごそうとしていたと知る。しばらく三人で呑んでいたが、おけいの顔には寅松に対する濃艶な思慕が滲み出ていた。
熊次郎の血が逆流した。かれの口から怒声が吹き出た。鬱憤していたものが一時にあふれ、目を怒らせて立ち上がると、もはや自分の感情を抑えることができなかった。
熊次郎はおけいの髪をつかむと戸外に引きずり出し、土間にあった薪をおけいの頭にたたきつけた。悲鳴をあげて倒れたおけいの頭部に、薪は幾度も打ちおろされ髪の中から頭蓋骨がのぞくまでになった。
凄まじい光景に身を震わせた寅松は、裏戸から外に逃げ、五十メートル離れた農家に逃げ込んだ。その間におけいの祖母が必死になって熊次郎の腕にしがみついたが、彼は祖母の頭部をも薪で強打し昏倒させた。熊次郎は寅松の家まで行ったが、留守だと知ると、「おけい」と自分の仲を引き裂いた菅沢種雄の家へ走って火を放った。
突然の炎に半鐘が鳴り、村の消防組員が駆けつけた。が、熊次郎は消火活動を制止し、これにさからった菅沢栄助の背中を農具の鋤でたたき負傷させた。種雄の家が燃え落ちるのを見届けた熊次郎は、自分を検挙した向後巡査の襲おうとしたが不在であった。彼は壁にかかっていたサーベルを奪い、荒物商岩井長松のもとに行った。
長松を外におびき出すと胸をサーベルで刺し殺害した。血に染まったサーベルを手にし、家に戻り地下足袋に履き替えると、実兄・岩淵清次郎の家に向かった。その折、妻よねに、自分を冷遇した向後巡査、土屋忠治、裏切った“おはな”、恋敵・菅沢寅末を殺すつもりだと口走った。
不思議なことがおきた。熊次郎の情報がまったく途切れたのだ。九月十二日には巡回中の警察官を殺害するなど、結果として五名を殺害、四名に傷害を負わせ、一件の放火に対し、動員された警察官などは延べ三万六千人と記録にある。
結局熊次郎は逮捕されることはなかった。実に四十二日間逃げとおし、自殺した。この自殺の時に村人が手引きして、東京日日新聞(現・毎日新聞)社記者らと熊次郎の直接インタビューを設定していた。五十円という当時としては高額な謝礼が支払われた。自殺する意志を知りながら、これを特種として警察には伝えず、体力が強すぎてなかなか死ねなかった熊次郎がやっと死亡するころ、東京日日新聞社から号外が出た。読者は競ってこの記事を読み東京日日新聞の購読部数は急増した。
この話には大正時代の農村の哀切がよく理解できると、作家の吉村氏が述べている。村民は政治的に憲政会と政友会二つに分かれ対立していても、それぞれに熊次郎を哀れと感じ、泊めてやったり食事させたりしていた。つまり村ごと犯人隠匿をしていた。
昭和二年(1927年)千葉地方裁判所八日市場支部は、熊次郎実兄の岩淵清次郎、義兄脇佐治郎、久賀村消防組第七部長倉長次郎、同小頭多田幾四郎、同消防組員鈴木一郎、東京日日新聞社通信部員坂本斉一らが、犯人隠匿および自殺幇助の判決をいいわたされた。しかし、殺人か自殺幇助かに焦点が絞られて裁判所では激しい議論が起こったが、判事は自殺幇助の判定を下した。それは、被告たちの熊次郎に対する愛情が認められたためで、検事側も控訴することはしなかった。
墓の前で自殺したと言うがどこか変で、実際は村人が墓の前へ遺体を運んだらしい。またカミソリで頸部を切ったというがそれほどの傷ではなく毒殺説が強かった。すべてどこかが奇妙な事件だった。岩淵熊次郎の【殺人、傷害、放火事件】は、坂本斉一、馬場秀夫を【特種記者】として新聞史に刻みつけた。
