(140)司馬史観の背景 | 江戸老人のブログ

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(140)司馬史観の背景


 

 何かと話題になる「司馬史観」の判断材料になるかもしれず、粕谷一希(かすや・かずき)の文章から、司馬遼太郎に関する部分を引用させていただく。前後からの読みやすさを考慮し、少し文章を変えています。なお敬称は略させていただきます。

 

 司馬遼太郎が国民的文士となったのは、一朝一夕の話ではない。長い歳月、司馬遼太郎は娯楽歴史小説を書き続け、その中で『竜馬 が行く』と『坂の上の雲』という、明治維新と日露戦争という日本史の二つのハイライトの、真のヒーロー、さわやかな人物像を描くことに成功した。
 さらに『空海の風景』などの新境地を開拓していく。こうした努力で、司馬遼太郎は歴史小説家から次第に歴史家的になっていった。司馬遼太郎がもっとも有名になった契機は、たぶん三島由紀夫 事件だと思う。
 

 1970年11月25日、三島由紀夫 は、青年たちと共に市谷自衛隊に突入して、将官を人質にしたうえで、バルコニー から激越なアジ演説を行い、自衛隊がまったく動かないと知り、部屋に戻り、割腹自殺を遂げた事件だ。
 翌日の「毎日新聞」は、事件の背景に文学的要素があると見て、司馬遼太郎にページ全面を使った文章を書かせた。「人が心に留め置くべきものを実行した」と記し、世をナルホドといわせた。このときから、司馬遼太郎は警世家となり、「文士から国士」に変身した。その後、小説を書く意欲を失った司馬遼太郎が意欲をしめしたのが、『文藝春秋』の巻頭にある連載随筆“この国のかたち”と週刊誌の『街道をゆく』という紀行文だった。
 

司馬遼太郎のような存在は、簡単には取って代わるものがない。司馬さんのように親しまれ愛された存在はいなかったし、今後とも出てくる可能性は少ない。ここまでは筆者もまったく同じ考えで『菜の花の沖』の「高田屋嘉兵衛」など、司馬さんの多くの小説を、文字通り夜を徹して読み、歴史の面白さに興奮したものだ。そうはいっても、司馬氏のその後については、少なからず違和感をもったのは、何も筆者だけではあるまい。この理由について粕谷氏は検討を加えており、これが面白いからご紹介させていただく。

 これからも司馬史観には、批判と修正が大規模にいろいろな場面で出てくるだろう。同じ日本人なのに、「明治の人がよくて、昭和の人はダメということはあり得ない」からだ。昭和の政治家も軍人も、結果として戦争に負けてご破算になったが、散り際がみごとな軍人が存在したのは事実だ。立派な武人は確かにいた
 
 粕谷一希の書かれた文章に戻るが、「司馬さんの作品には、『司馬好み』が見られる。」とあり、まず人物像を相当に潤色している。(潤色:じゅんしょく=面白く作り変えること)。もっとも驚いたのは、寺田屋騒動のあとの有名な都都逸(どどいつ)「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」が、『竜馬がゆく』のなかでは、竜馬が事件の後につくっている。しかし歴史上は、この都都逸は高杉晋作がつくったことになっている

 まあ、高杉晋作の都都逸として花柳界で唄われたとの伝説が残っているほどの話なのだが、私が(粕谷一希氏が司馬遼太郎氏に)「これは高杉の作ではないですか?」と聞くと、「君、それはそうだし、そんなことはわかっているのだけど、おれは竜馬 に唄わせたかった」と云い切った。(『花神』)のシーボルトの娘(『オランダお稲』だろう:筆者)の恋愛というのは、いくら調べても年齢が合わない」と吉村昭 さんも洩らしていたが、それに類した創作は司馬作品の中にはまだまだ見られる。(精緻な正確さを信条とする吉村昭 氏もさぞ困惑したことだろう。)

 司馬さんは「山県有朋」に対してとてもシビアだが、山形有朋がいたからこそ、日露戦争の勝利があった。適度なところで手を打てたから勝てたのだ。司馬さんの「長州嫌い」は有名だが、その後の『この国のかたち』などとは、どんな関係になるのか不思議だ(良く分らない)。
 

 どうやら突然に、「文士から国士」に変身した司馬遼太郎に対し、池波正太郎 グルメの話を書いたり、藤沢周平が『たそがれ清兵衛』を書いたこと自体が、司馬さんへの批判ではなかったかと、私(粕谷一希)は思っている。そういえば考古学者に変身した著名な推理小説家がいた。似たような話はかってたくさんあった(筆者)。
 

 もっとも興味深かったのは、司馬さんは一時、土地公有化論を盛んにぶっていた。田中角栄の「列島改造論」前後のことである。危機感が彼を動かし、本にもした。同時に「この問題は財界の松下幸之助 さんとぜひ対談をしたい」と云いだした。そこで私が「中央公論社が出している『経営問題』という雑誌でやったらどうか」、と司馬さんにいうと、「それは嫌だ。『中央公論』の本誌でやりたい」と司馬さんはガンとして譲らなかった。もっとも私は二度目の「中央公論」編集長のときで(ある程度自由が利き)、松下幸之助 さんに声をかけると、「司馬さんがやりたいというのならば・・・・・・」と、一も二もなく出てきた。そんなわけで、何の苦労もなく「司馬遼太郎と松下幸之助 のビック対談」が実現した。


対談のとき話を聞いていて痛感したのは、松下幸之助 の前に出ると、司馬さんといえど一介の書生に過ぎないということだった。土地公有化などといっても、何の効果もない。土地というものは所有するからというより、誰が「所有権」を握るかが問題なのだ。
 松下さんは、「国有地というのは放っておいても増えている」と云い放った。「私たちみたいなのが死にまっしゃろ? 相続税が払いきれないんでみな物納する。それが国有地」
 ようするに、金持ちから取り上げた土地をすべて大蔵(財務)省が握っていて、使用権も握っているというのだ。かって小泉首相が首相官邸を建て直すために仮公舎に移り住んだことがあったが、やはり立派な豪邸だったのは記憶に新しい。
 

いまだに東京の都心部に広大な国有地は温存されていて、国民に見えないように各省庁が使っている。

 だから「土地公有化論などと文士が云ってみても、専門の実務家からみればとても、取るに足らないことだとの印象を、そばで聞いていて持ってしまった。司馬さんもあまり国事にコミット(=関係する)して、文士の甘さが目についてきたのである。


生意気ではあるものの、司馬遼太郎の甘さが筆者にも違和感を持たせた原因と納得した次第だ。


                                        了

引用図書:『作家が死ぬと時代が変わる』粕谷一希著 日本経済新聞社 2006年