(116)ふぉん・しいふぉるとの娘・下 | 江戸老人のブログ

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(116)ふぉん・しいふぉるとの娘・下



 安政七年七月六日、シーボルトが10代の息子を伴ってイギリス汽船イングランド号で長崎に到着した。国外追放から三十年をへていた。

 ヨーロッパで結婚し子供がいた。お稲とタダにすぐにでも会いたいと希望し、お滝とお稲は翌日出島を訪れた。ドアが開くと大きな身体をした外国人が、お稲たちに眼を向けていた。眉毛もまつげも白かった。家に戻ってからお滝は、まったく過去の人で、何の気持ちも起きないとお稲にいった。
 

 オランダ政府は、博物館を建て、日本からの資料を移し陳列させた。ヨーロッパで評判となり、ロシア、ドイツ、オランダなどの皇帝らも参観に訪れた。シーボルトは日本研究の第一人者としてヨーロッパ学会に論文を発表した。「日本」とタイトルをつけ、全二十巻が限定出版されていた。
  この頃、幕府の海軍伝習所にやってきたカッテンデーケについた医官のポンペが、長崎でオランダ医学を教え始めた。松本良順(まつもと・りょうじゅん)が抜群の成績で、医学伝習の実務をこなし、日本で初めての西洋式病院が造られた。お稲も一時ここで学んだ。若い世代の西洋医学は飛躍的に進歩していた。
 

 この頃長崎でコレラが流行り、日夜、駆け回って治療に当たったポンペに対する長崎市民の感謝は大きかった。奉行所もポンペの病院・小島療養所設立に協力、また日本で最初の医学教育としての解剖が行われ、お稲もこれに参加した。近代医学が確立しつつあった。 それやこれやのうち、シーボルトはお稲が雇ってやった女中のしお(17)に手をつけた。怒ったお稲は他と交代させるが、またもやえいに手をつけた。シーボルトの女癖は悪かった。たった一度犯され、高子(タダ)を産まされたお稲にとっては許すことができない父親だった。
 

 シーボルトの医学は遅れていた。正確には日本人の創意・工夫で西洋医学知識が深まり、シーボルトの知識は初歩的なものとなった。

 また外交顧問を望んだシーボルトは、三十年という歳月がもたらした変化に気づかなかった。外国掛(外国係)老中安藤信正は、シーボルトをいったん幕府顧問とするが、後になって体よく追い払った。

 オランダ政府から、「日本大使に任命するから至急帰国せよ」、との命にシーボルトはただちに帰国したが、それは帰りたがらぬ男を早く帰国させるための嘘で、二度と日本に来ることはなかった。


 
  宇和島藩主・伊達宗城(だて・むねなり)はお稲を好ましく思い、親しく話すうち名前を変えるように勧めた。伊達の一文字「伊」と、シーボルトの「と」から「篤」の一字をあて、「伊篤(いとく)」とし、姓も楠本にせよと勧め、楠本伊篤(くすもと・いとく)と名を変えた。ここでは、従来どおりお稲として書く。


 娘のタダは、伊達家の侍女に召され、宇和島藩主らの努力でやっと解放された三瀬周三と、伊達宗城の臨席で婚儀を挙げた。周三は二十八歳、タカ(タダを改名)が十五歳だった。婚儀というものに無縁だったお稲は涙があふれて仕方なかった。

 

 世は明治となった。母親のお滝に子宮ガンの兆候があり、まさか自分が母親を診察するわけにも行かず、医師に見せたが同じ診断だった。オランダ苺を食べたいというお滝の最期の願いをかなえてすぐの四月十二日、お滝は旅立った。享年六十三、法号は「白厳妙滝信女」だった。
 お稲は鳴滝塾の土地・建物を買い戻した。現在、国の文化財シーボルト住居跡になっている。またお稲を犯した石井宗謙の息子は、気立てのいい俊英で、緒方洪庵が大阪に設立した適塾で抜群の成績をおさめた。


 お稲は東京に出て産科医として活躍をはじめた。初めの頃、患者は外国人の妊産婦だけだったが、いつの間にか、高級官吏、豪商の家からも診断を請われるようになり、下男・下女を雇い、あわただしく往診に飛び回った。多くの難産を無事に出産させた。

 

 三瀬緒淵(もろふち:周三を改名)からの手紙で、福沢諭吉が日本最初の女医に会いたがっているとのことで、お稲を引き合わせるという。福沢は中津藩の足軽の子として生まれ、蘭学を志し緒方洪庵の塾に入門、たちまち頭角を現し塾頭となった。軍艦奉行木村摂津の守に従い、咸臨丸などでアメリカへ数度訪れ、表立った政治から離れ、学究としてのみに生きることに決め、慶応義塾を設立した。
 居宅を訪れると福沢は「わざわざおいでいただき恐縮です」と丁重にいい「長いあいだお目にかかりたいと思っていました」といって、お稲が豊かな医学を身につけ、男の医師に劣らぬ活躍をしめしていることを、熱っぽい口調で賞賛した。
 「女の身で医学を修めるには、想像を絶したご苦労があったことと推察いたします。よく今日まで学問を捨てずにこられました。敬服の他はありません。西洋でも女の医者はまれですが、これからも、貴姉は新しい時代の女の鏡です」
 福沢は敬意をたたえた眼でいった。「身に余る光栄です」お稲は、面映そうに答えた。



 福沢は女医の学校を創るように求めたが、稲にその気はなく、そっとしておいて欲しいと願った。ある日、お稲のもとに役人が訪れ「宮内省に出頭せよ」と告げた。福沢の紹介で、宮内省にも女医として存在が知られ、「宮内庁御用掛」に命じられた。宮内庁の砂利を踏んで城内に入り一室に控えると、宮内省医事掛の役人が一枚の紙を手渡した。そこには、


楠本 以禰(いね)
 権展侍葉室(ごんのてんじ・はむろ)光子妊娠ニ付御用掛申附候事(そうろうこと)
 明治六年七月三十一日



 
と書かれていた。「明治天皇の側室、葉室光子が妊娠したから医師として働け」とのことだ。無事に生まれると明治天皇第一子となられる。
 翌日からお稲は産科医として葉室光子に付き添った。診断すると脚気の症状があり、「牛乳を摂るように」といったが聞き入れられず、危険を感じた。ドイツから招いたミリュレル医師らも脚気についてはまったく知らなかった。西欧には脚気が皆無で、治療法を知らなかったのだ。
 九月十八日の正午過ぎ、陣痛がはじまり、午後三時三十分、お稲は男児を取り上げたが死産であった。また光子の容態が急変し息絶えた。駆けつけたホフマンもミュルレルもさまざまな手当てをしたが無駄となった。死因は脚気衝心だった。宮内庁から「格別骨を折候(格別に苦労した)」として金百円を賜った。


 政府は明治八年(1875)医師学術試験規則を定め、試験に合格せぬものは、医師として診療に従事を禁止した。つまり医師国家試験が始まった。ただし25年以上医師として働いていると試験は免除された。

 お稲の名前は日増しに高まっていた。家の前に人力車が止まっていない日はなく、待合室には妊婦と付き添いの者たちが窮屈そうに座り診療を待った。

 そんな中、お稲は老いを感じた。長崎に帰ろうと思った。福沢諭吉からも同意と励ましの手紙があった。

 ある日、医術開業試験に、日本で始めて女子が合格し、医院を開き大きな記事になった。合格したのは埼玉県大里村生まれの荻野(おぎの)ぎんだった。ぎんは、十六歳のとき土地の素封家に嫁いだが、放蕩な夫から性病をうつされ、東京の順天堂病院に入院した。医師は男性で、下腹部を医師の眼にさらさねばならぬことに羞恥を感じ、世の女性たちのため医師になろうと決意、東京女子師範学校に入学、女が受験した前例がないと拒む内務省に無理に願書を提出、幾度も訴えて、とうとう内務省衛生局長から女子の受験が正式に許可された。
 新しいタイプの女医出現にお稲は驚いたが、当然のことと考えた。長崎でも女子教育を目的にした活水女学校が開校した。西南戦争がおき長崎にも情報が伝わった。



 その年十月二十三日、高子(タダ)からの手紙に夫の三瀬周三がコレラで死亡したと知らせてきた。お稲の顔から血の気が失せた。心の支えであった三瀬を失った悲しみは大きかった。高子が長崎に戻るとあり、お稲は待った。高子が船から降りるのが見えるとお稲は泣いた。お稲は将来の生活に不安を覚えた。自分だけなら何とかなるが、三瀬の死によって面倒を見なくてはいけない高子がいた。



 ある日片桐重明という医師が東京からお稲を尋ねてきた。三瀬の死に悔やみを述べ香典を出した。日ごろ高子に医師となれと説得していたお稲は、高子を東京へ同道してくれるよう頼んだ。しかし高子に想いを寄せていた片桐は、高子を無理矢理犯した。その結果、高子は身ごもったとの手紙を受けた。

 片桐は高子との結婚を望んたが、高子は片桐を憎んだ。なぜ抵抗しなかったのか、お稲は石井宗謙に犯された自分を想い、女というものの弱さを思った。長崎で大火があった十日後、高子が帰ってきた。お稲は二十七年前に、自分が赤子を抱いて長崎に帰ってきたときの、母お滝の驚きと悲しみを想像した。



 六月二十一日、アメリカのグラント将軍が長崎に上陸し話題となった。七月十九日、タカに男児が誕生した。三瀬とお高の間に子はなかったから、初めての子供であり、孫であった。お稲はすぐれた学識を持った周三の名をとり、初孫に命名した。

 長崎医学校の助教、山脇泰助がぜひ高子と結婚したいと申し入れた。結果として高子は山脇と一緒になったが、二人の子を設けた後、山脇は死去した。高は男運が悪かったが、それでも、お稲は三人の孫を持った。


 新しい時代を感じたお稲は高子たちをつれ、再び東京へ出た。長崎への想いは失せていた。船が横浜に着き、お稲は目覚しい変貌に眼を見張った。洋式の建物が立ち並び、男はすべて髪を短く切り、洋服を身に着けているものもいる。道にはラッパを鳴らして乗合馬車が走り、夜になるとガス灯が明るく点じられた。電話が開設され、鉄道が新たに敷設された。憲法発布を祝う催しが続き、その翌年には国会開催が予定され、街には明るい雰囲気があった。
 
 新聞は、荻野ぎんに続き、生沢クノ、高橋端子、本多せん子らが、開業試験に合格、医院を開いたことを伝えた。お稲は「楠本医院」という産科の看板を出した。若い女医たちの開業を傍観する気にはなれなかった。

 すぐに診断を求める者の訪れがあり、往診に回るようになったが、以前のような忙しさにはならなかった。患者は一定数になるとそれ以上に増える気配はなかった。

 初孫の周三は理科系にすぐれ、成長して、現・慈恵医大に合格した。日本の医師は、外国人医師から最新知識吸収につとめていたが、中には外人医師よりも豊かな知識を持つ者が多く輩出していた。


 翌年正月、お稲は七十歳を迎えた。東京では医学がさらに進展した。明治三十六年八月二十五日の夕食に、お稲は高子(タダ)に頼んでうなぎの蒲焼を取り寄せ、食後に孫たちとスイカを食べた。夜半から急に激しい腹痛に見舞われた。近くの医者が呼ばれ、鰻とスイカの食べあわせが老いたお稲に悪影響を与えたとの診断だった。

 夜明け近く、お稲は昏睡状態となり、慈恵医大の学生寮から駆けつけた孫の周三らに看取られ、八月二十六日午後八時過ぎに息を引き取った。死に顔は幼児のようだったという。


筆者のまとめ

 嘉永5年(1853)に熊本に生まれた北里柴三郎は明治8年東京医学校(現・東大医学部)に入学、卒業後に渡欧してペスト菌を発見、また破傷風およびジフテリアの研究と血清療法で世界を驚愕させノーベル医学賞候補となったが、共同研究者のベーリングのみが受賞した。

 帰国後の北里のため、福沢諭吉は私立伝染病研究所を創設した。あとになって今度は北里が福沢諭吉のため、慶応義塾に医学部を創設、初代部長・院長となった。鈴木三重吉は脚気の原因となる、ビタミンB1を発見、オリザニンと名づけた。また 野口英世は米国のエール大学から博士号を受け、アフリカの風土病研究に業績を残した。


加えて秦佐八郎らが梅毒のスピロヘータを発見、治療薬サルバルサンをつくり、ペニシリン治療まで重要役割を果した。またイギリスで学んだ高木兼寛は不明だった脚気の軍隊での治療に成功した。

 1987年には利根川進博士がノーベル生理学・医学賞を受賞、ヒト遺伝子の解析や、iPS細胞など、今も日本の医学はさまざまな分野で世界の最先端を走っている。一時的には世界の最長寿国となり、また国民皆医療保険制度はカナダよりずっと低い負担で日本国民は世界で唯一、最高の医療恩恵に浴し、世界の羨望を集めている。




引用図書:『ふぉん・しいふぉるとの娘』吉村昭著 新潮文庫 平成15年 第15刷