(90) 安政の大変事  | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。


安政の大変事


 幕末には変事が多かったが、特に【安政】のときは驚くべきことが多発した。その前の嘉永から時系列で起きたことを書く。江戸幕府270年で、きわめて特異だったとご理解いただければと願う。あまりに酷いのでわざわざ年号を【万延(まんえん)】に変えたほどである

黒船来航 
 嘉永6年6月3日、浦賀にペリーが来航、蒸気船二隻と帆船二隻の四隻が来航し江戸は大騒ぎとなった。明らかに脅しのために撃った空砲で江戸庶民は震え上がったという。もっとも幕府はオランダからの情報で知っていたが、何も出来なかった。

火薬大爆発
 嘉永7年(1854)6月11日淀橋の水車小屋が大爆発を起こし、周囲を吹き飛ばした。外国との戦争に備え大砲 の訓練が多くなり、火薬が大量に必要で、現在の青梅街道と神田川の交差する地点(よどばし・ヨドバシカメラの名称はここから)にあった直径5メートルくらいの水車小屋で、硝石や硫黄を砕き、幕府が火薬を作らせていた。もちろん他でも作らせており、同じような事故があった。青梅街道は交通量も多く、人家も多い。危険だと周囲から止められたが水車の持ち主が強欲でやめなかった。素人だから危険極まりない。その結果の大爆発で、重軽傷者57人をだした。


黒船再び来航
 嘉永7年3月18日 ペリーは一年後といったのに半年後に現れた。将軍家慶(いえよし)の死去を香港で聞きつけ「、チャンスだ!」と思い再来したという。


巨大地震 
 嘉永7年(1854)11月4日の午前8時頃、M8.4の激震がおき、翌日も近畿一帯を巨大地震が襲った。いわゆる「安政東南海地震だが、ロシア と厄介きわまる外交談判を始めた川路聖謨(かわじ・としあきら)プチャーチンらの目の前で天変地異が起きた。交渉が始まった翌日のことだった。大津波が発生、気づいたとき下田の町並みは波にさらわれ消失していた。このとき徳川斉昭は、地震を「神風だ!」と喜び、「プチャーチンを殺してしまえ」とわめき、「かならず戦争になり、負けますが?」と老中阿部正弘にたしなめられている。斉昭とはそういう人物だった。

 これらの大地震は嘉永年間に起きているが、安政二年の江戸大地震と一緒にし、安政大地震と呼ぶことが多い。あまりに地震が多く、不安になった幕府は11月末年号を嘉永から安政に変えた。


日露和親条約も締結。
 安政元年12月9日 ボーハタン号が日米和親条約批准書交換のため下田に入港した。「アメリカ と条約を結ぶ約束などしていない」と、ちょうど川路らがロシア に対しオトボケで通していた作戦が完全にバレたため日露和親条約も締結せざるを得なかった。

金小判流失始まる
 安政4年5月26日 下田条約が締結され、通過の交換比率が、一ドルに対し一分銀3枚の交換比率と決められた。莫大な量の金貨が流出した。また治外法権に気づかずあとで苦労する。関税とは何か相手側から教えられるしまつだった。


ハリス江戸城に
 安政4年10月14日 ハリスが江戸城へ登城する。あたかも大名行列なみで、江戸庶民が見物に押しかけたという。


コロリ流行
 コレラ 安政5年7月ごろからコレラが流行り始める。この頃は伝染病とはわかっていたが治療法はなかった。死三万人。コッホによるコレラ菌発見は1883年 仮名垣魯文(かながき・ろぶん)の『安政コロリ流行記』によると6月に長崎で流行し、各地へ広がるとポンベから警告があった。長崎で医学所を共に運営していた松本良順もコレラにやられたが、ポンペによる治療で快癒した。
アメリカ 軍艦ミシシッピィー号が持ってきたとされ、まさしく開国がもたらした災害だった。  

 四年前の嘉永7年(1854)密航を望んだ吉田松陰が最初にこぎ寄せた船だった。山東京山(京伝の弟) 安藤広重らもコロリで死去。


不可能な約束と攘夷利権
 攘夷を主張する朝廷に条約承認を求め、幕府は裏工作として公家たちに三万両 今の金額にするとざっと12億円を送り、大丈夫 と思っていたら、はっきり拒否された。開国をしないと諸外国と戦争になり、開国すれば朝廷初め攘夷派が襲ってくる。できない政策を「から約束」すれば命取りになると理解できなかった。
 
安政大獄 
 安政5年頃から大老職に就いた井伊直弼は強権だけで事態を解決しようとし、反対派を捕らえては暗黒裁判で殺害した。しょうがないのだがあまりに殺しすぎた。日本国内に恨みが支配し始めた。被害者100名を超す。


ご金蔵破り 
 安政二年3月6日、江戸城のご金蔵に泥棒が入り4000両を盗まれる。金銭よりも幕府の権威が地に落ちる

安政江戸大地震
 安政二年(1855)10月2日 江戸で大きな地震が発生した。この地震は幕末の政治、経済、社会をすべて巻き込み幕府の土台を根底から揺るがした。ガタの来た幕府の屋躰骨に食い込んだ。江戸のお台場は、くずれ台場ともよばれ国防はゼロ となった。

 会津藩の砲台は全壊、火災も発生し、近くに火薬庫がありどうしようもない。会津藩のケチのつき始めで、幕末動乱で薩摩と争って「朝敵」となる。会津江戸屋敷も消失。死者139人 被害第二位は佐倉藩堀田備中守正篤(まさひろ)。

 また小石川水戸屋敷で藤田東湖が圧死。水戸烈公の重石になっていたのに斉昭のブレーキが利かなくなった。もと湿地に立っていた屋敷は全滅。町方の死者4000


台風
 安政3年(1856)8月25日 朝から雨・八時ごろから猛烈な雨 大風水害一難去ってまた一難 永代橋 橋脚が二本折れた。真ん中で途切れ通行不能。木場の材木が流れ出した。「近来まれなる大風雨」と記されているが今で言う「大型で非常に強い台風

 本物の火事もおき、三千坪を焼いた。深川一帯は泥沼化。両国橋は無事だったが、見世物小屋は吹き飛ばされ、江戸はずたずたにされた。
 

幕府軍艦昌平丸破損

 品川沖の幕府軍艦昌平丸は、横転、お台場も再度損傷した。前年の地震に懲りて屋根を軽くしたから、台風 には弱かった。「安政三年ですから、前の年に地震にあっている江戸は、この大暴風雨(おおあらし)ですから、いずれは世も末になって、徳川様も永いことはない。この世はどうなることやらと思っていました」などと書かれた記録がある。


阿部正弘死去
 安政4年6月17日 阿部正弘ストレスで死去(腹部のガン) 天保14年に25歳で老中になり、水戸斉昭を上手くコントロールしたが、安政二年江戸大地震の七日後に老中職を堀田正篤(まさひろ)にゆず っていた。優れた指導者がいなくなる。



開国 
 安政5年6月19日 日米修好通商条約締結。諸物価暴騰、猛烈なインフレーション 。武士階級の不満が江戸から全国に満ちてくる。危険な兆候。嫌な雰囲気が漂う。


桜田門外の変
  安政7年3月3日、桜田門外にて井伊大老暗殺。水戸浪士と薩摩浪士一名によるテロ事件。
 江戸庶民の喝采を浴びる。同3月23日、あまりに変事が続くため、年号を【万延】に改める。嘉永を安政に変えたのに効果がなく再び年号を変えた。

 

 徳川幕府は、思った以上に疲弊しており、そこへ地震や大 や疫病などが加わり、政権交代せざるを得ない状況だったとご理解いただければ、と記した。


引用図書:『井伊直弼の首』 野口武彦著 新潮新書