(70)青梅街道中野付近 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。

 


青梅街道中野付近
 
 井の頭恩賜公園の水は神田川となり、江戸の上水道の一部をまかなった。青梅街道と交差するが、この橋が「淀橋」で
淀橋区の名称の由来となったが、現在の新宿副都心のあった場所を指すヨドバシカメラ店名もここからだ。天正18年(1590)家康の命により大久保主水(おおくぼ・もんど)が開発にあたった。
 

 淀橋は水車が有名で、直径が一丈六尺(約5メートル)もあるものがあった。この辺りは、水車の力を使い味噌や製粉業が大東亜戦争後まで栄えた。

 幕末に幕府が火薬製造を命じ、嘉永七年(1854)に大爆発事故により、付近家屋に大被害を与えた。この話は有名で多くの時代小説にも紹介される。
 この辺り、神田川両岸には飲食店、茶店が多く、図会を見ると客も多い。青梅街道は、「堀の内のお祖師様」として誰もが知っていた「堀の内妙法寺」への参道としても知られ、内藤新宿も近く、参詣客が絶えなかったとされる。 

 

  妙法寺は今は環状七号線に面しているといっても間違いではない。七日の法華千部会、十月の会式(えしき)は、大変な賑わいだったそうだ。広い境内の回廊が立派に見える。本尊は日蓮上人像で、開創は元和年間(1615~24)とされる。本堂への回廊わきに石造五重塔が見える。古いものではなく万延元年(1860)の造立で幕末のものだ。この妙法寺、11代将軍家斉、12代家慶二代が休憩のため立ち寄り、さらに有名になった。

 

 青梅街道を往復する客が絶えず、中途に鍋屋横丁(なべやよこちょう)があり、休憩する客で賑わった。なんでも庭に銘木があったと伝わっている。鍋を商った店があった訳でなく、休み茶屋の名前で地名が残り、現代の小説家 浅田次郎氏の作品によく付近の地名が登場する。。
 

 ちなみに現在の中央線・総武線(甲武鉄道)をつくる際、青梅街道を予定したが、空気汚染の反対があり、やむなく現在のコースとした。用地のすべてが田畑、だから東中野駅手前から立川駅まで、曲線なしの一直線とした。世界的にも大都市近郊で、鉄路の一直線は非常に珍しい。
 大将期の中野駅周辺は、関東大震災当時早稲田から線路を伝って、徒歩で逃れた井伏鱒二氏の随筆集『荻窪風土記』に詳しい。
 
 中野といえばお犬様で有名、実際には三代将軍家光の側室で、綱吉実母の桂昌院(けいしょういんと、筑波山知足院の僧、隆光などの画策だが、元禄八年(1695)に将軍綱吉が「生類憐みの令」を発した。現在の中野区役所、サンプラザ周辺に数万頭の犬を飼育した。

 囲町(かこいちょう)と名づけ、今も囲町公園などに名が残る。跡地はおそらく現在の高円寺駅あたりまでと推定されるが、その後、帝国陸軍電信隊となり、一隅には陸軍中野学校もあり、戦後は米軍が接収し、米軍憲兵隊が駐屯した。


 その後は警察大学・警察学校などとなり、それも移転して現在に至る。警察学校跡地には非常災害時に備えた24時間365日対応の警察病院がある。

 現在は中野駅北側で再開発が進み、明治大學、帝京大学、早稲田大学学生寮の高層ビルが完成、加えてアサヒビールの子会社がすべて集合し、これも高層ビルにまとまった。筆者が子供の頃見た光景は一変しまったく異なった風景となった。

 昼時は昼食を中野駅北口商店街で食べよう、ということになり、昼時は混むから【ランチ難民という言葉ができたほど人が増えた。
 八代将軍吉宗が、犬屋敷跡に桃花を植えよと命じ、桃園(ももぞの)の名が残るが、狩を盛んにしたせいか、花は残っていない。桃園小学校、桃園公園、桃園地域センターなどに名が残るが影が薄くなっている。
 
 中野は象にも縁があり、享保13年(1728)ベトナムから象二頭が献上され、長崎に到着したが、雌が死に、残り一頭が翌14年3月に長崎を出発、四月に京都で天覧に供された。その折、象は無冠という訳にはと、従四位を賜っている。5月には江戸城で将軍に台覧(たいらん:皇族など高貴な人が見ること)、その後は、中野村、名主卯右衛門と百姓源助の両名で飼育され、二十数年を生き延びて終わった。餌の種類、数量などの記録も残り、「好んで酒を飲む」とあるのが可笑しい。なお、像の骨は中野宝仙寺に納めたとされる。宝仙寺と堀江高齢者福祉センターに名が残る堀江家は豪農で、中野周辺に広大な土地を所持したと伝わる。

【時しあれば人の国なるけだものも けふ九重に見るがうれしき】


中御門天皇『甘露集』
 

宝仙寺は青梅街道に面し、この街道は慶長年間に大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)が開き、青梅近郊産出の石灰を運び、江戸城や大名屋敷、町屋の建築需要に応じたという。現在の中野区立第十中学校の場所に三重塔があり、これが目立ったところから、江戸時代からこの付近を「塔の山」とよび昭和43年まで名が残っていた。いまだに中野区立「塔の山小学校」に名が残っている。
 
 「落合」という地名は二つの川が落合う所を意味するという。神田川と妙正寺川が新宿区で落ち合い、御茶ノ水方面へ向かうが、江戸時代は湿地帯で、で有名な場所だった。「この地は蛍に名あり。形、大にして光も他に勝りたり」とあるから源氏ホタルだろう。落合の絵図を見ると、老若男女が楽しげに集っている様子、蛍を追って団扇を使う者や、長い竹竿を使う者など、裾を絡げ手慣れた様子の男らは業者だろう。川中に落ちるのではないかとの姿も見えハラハラする。
 

 江戸ではあらゆる階級が動物を愛玩し、植木を育て、鉢物を手入れし、犬・猫・鳥・魚・虫などは動物飼育の代表的なものだった。虫では、ほかにキリギリス、マツムシ、スズムシ、クツワムシなど、蛍の光を楽しみ、虫の声に耳を傾けるのが、江戸の美意識だった。いまもそれほど変わったとは思えない。
                                了