佃島界隈
【名月やここ住吉の佃島】宝井基角(たからい・きかく)
上の俳句になった住吉神社はもんじゃ焼で有名な佃島にあるが、もとは大阪西淀川の田蓑神社から勧請(かんじょう:神仏の分霊を願い祭ること)したもので、大阪佃村と関係が深い。江戸を開いた家康が、まずやったことが食塩確保だった。食塩がないとどうしようもない。まして戦に備える城だからどうしても必要だ。ところが江戸湾は泥底のため製塩に適さず、目をつけたのが千葉県の行徳だった。新たに小名木川を掘削し、千葉方面との交通水路を造り、その他の食料も確保したという。
困ったのが漁獲不足だ。江戸前の豊かな漁場はあるが、漁民がいなかった。大阪西淀川の佃村から、森孫右衛門ほか37人を村ごと江戸に呼び寄せた。
今も大阪には市立佃小学校・佃中学校が大阪市西淀川にあり、その一方、東京には中央区立佃島小学校と佃中学校がある。東京の住居表示では佃島でなく「佃」となり、佃一丁目から三丁目がある。
攝津の国(せっつのくに:大阪府)佃村と家康には、大阪夏の陣、冬の陣(1614,1615)以来の深い関係があるという。天正10年本能寺の変の折、明智光秀軍から、佃村関係者が家康を色々と助けたらしい。佃への厚遇ぶりを見ると、相当なことがあったらしい。
大阪からの人々は人口も増え、1644年現在の佃島付近の湿地帯を埋め立て、島として住み始めた。
家康はこの人たちに漁業特権を与え、代わりとして白魚などの漁獲を納めさせた。この風習は維新後も皇室へと続き、昭和40年まで行われた。昭和30年代からシラウオは絶滅、それを知って「他から持ってくるのは大変」と昭和天皇がお断りになられるまで続いたという。
多くの特権があたえられ当然ながら税は免除された。大阪時代から小魚の保存食を佃煮として名物にした。「大阪の陣」でも使われたが、「日清・日露戦争」で軍隊食として多く使われた。
【つきもおぼろに白魚の かがりもかすむ春の空】 歌舞伎『三人吉三』のお嬢吉三の台詞が名台詞といわれるのも、夜にかがり火を焚き、大きな四手網(よつであみ)で白魚漁をした光景に、江戸情緒が強いからだろう。シラウオ漁の浮世絵が残っている。
江戸城の殿様と大奥だけなら多量の食料はいらぬが、江戸城では、毎日登城する侍に限り、昼食を出したという。数は相当で、大量漁獲が必要となる。また、江戸も人口が増加、食料不足が見えてきた。そこで主に【紀州】から漁業集団を招き、伊豆、房総、相模に入って貰った。漁業技術は飛躍的に向上、佃島の人口も増え、近くの日本橋で魚を商った。これが【日本橋魚河岸】として関東大震災まで栄える。
幕府は優先的に漁獲を買いつけたくて、お直買い(おじかがい)制度を設け、日本橋にお肴納屋(おさかななや)をつくり、生簀(いけす)も作っている。ここを根城に、役人が14、5名の手かぎを持った手勢を連れ見回った。江戸の人口が増えると、魚価格も上昇したが、買上げ価格はタダ同然、漁師たちは嫌がって漁獲を隠した。見つかると「御用!」と大声で叫び持ち去る。特に小名木川のあたり、入念に見回ったとされる。
江戸の佃島は今と違い、いくつかに分かれ、【江戸名所図会】をみると、晴れた日は、波が陽を照り返し、大きな船がいくつも帆をおろしている。その背後を滑っていく膨らんだ帆が眼に眩しい。帆にはそれぞれ屋号や商標が目立つ。江戸の頃だから高い建物はなく、ともかく空が広い。正面遠くに房総半島先端、安房の国がかすんでいる。
遠くに見える森の島が石川島、ここに火付け盗賊改め長谷川平蔵が人足寄場をつくらせ、刑期三年とし、島抜けは死罪だが、大工、建具、指物、塗師などの職業訓練を行った。時によっては外出仕事もさせ、この時期では世界に珍しい矯正機関だ。
「佃の渡し」の所には、材木店と薪・炭店が多く、対岸の佃島には住吉明神の社(やしろ)と、その横に藤棚が見え、亀戸天神の藤と比較された。西北から佃島を見ると、すぐ前が鉄砲洲稲荷だった。
富士講が盛んで、小さな富士山が作ってある。左手遠くへ永代橋が続くが、文化4年8月(1807)の深川八幡宮祭のとき、橋が落下、多くの犠牲が出た。
左手に進み稲荷橋から高橋(たかばし:同名の橋は今もある)を渡ると霊岸島(れいがんじま)で、この橋の右側に、御船手組頭(おふなて・くみがしら)・向井将監(むかい・しょうげん)の役宅があり、海上交通と船を管理した。
その海側が船番所で、遠島となった罪人は、船牢に込め、鉄砲洲沖に3日間停泊、ひそかに縁者と最後の別れをさせた。
昭和30年を過ぎる頃から隅田川の汚染が酷く、川の近くでは鼻をつまむほど臭かったが、長年の努力で改善され、高層ビルが林立する近未来的景観となった。
人足寄場跡地が、石川島播磨重工業となり造船業で栄えた。しかしこれも豊洲へ移転、昭和61年、跡地にリバーシティ21との超高層住宅を計画、平成10年頃、東京都、住宅・都市整備公団が竣工、13棟およそ4千戸の街となった。佃の渡しは、昭和39年、東京オリンピックの年、佃大橋の完成で役目を終えた。今は島といってもすべて一体化、何処から何処まで佃島、何処から月島といっても無益だ。佃島(住所は佃)ではまだ三軒が佃煮を作り商っていると、中央区役所広報課が教えてくれた。
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