東京の昔・神田界隈
親しい友が、神田神保町が好きで、しばしば通っている。古書店などをめぐったあと、馴染みの喫茶店で一杯のコーヒーを楽しむそうだ。
神田はずっと学生街で中央大学が八王子へ移転しても、雰囲気は変わっていないという。愛読する作家、故永井龍男氏の生家が神田猿楽町で、しばしばこの地の思い出を書かれている。
神保町の交差点のかどに勧工場(かんこうば)があり、別名、勧商場ともいい、明治・大正の頃、多くの商店が組合をつくり、後のデパートのように商品を陳列・販売したと広辞苑にあたって知った。
文章だけで見たことがなく、理解が難しいのだが、奇妙な造りの建物は、子供たちの格好の遊び場だったという。坂の途中には病院があり、ここの看護婦は男性を誘うとかの噂が子供の間に広まったが、これは真っ赤な嘘だったとか、ロシア人女性が住んでおられたとか、その頃、牛乳は陶製の瓶(びん)で配られたとかの話だった。
神田川の水が綺麗で子供たちで泳いだ話もあり、これらの話をまとめて小説『東京石版図絵』にまとめた。東京育ちには、神田は一方ならぬ懐かしさを持つ。もともと神田は【神田区】として千代田区とは別に独立していた。
神田川の満々とした水面(みなも)に聖橋の影が写り込み、静かな雰囲気が漂うが、実は人工川で掘割を深く掘って今の形にしたのは、伊達正宗の仕事だという。
家康が江戸を開いて、壮大な都市計画を実行した天下普請、完成はずいぶん後で、三代将軍家光の治世だったとか。江戸城東側(日比谷)は、湿地帯だったところに居住地が必要で、神田の山を崩して日比谷一帯を埋め立てた。また神田山の跡地へ駿河からの家臣団を住まわせたから、ここを駿河台と呼ぶ。家康の死後の話だという。この頃には武家諸法度、禁中公家諸法度などの法整備も整った。
神田川と呼ぶ堀を挟み、北側には湯島聖堂、南側にニコライ堂がある。このニコライ堂、ペテルス・ベルグ神学校生だったロシアの若者イオアン・カサトキンが、高田屋嘉兵衛に憧れて来日し、色々あって明治初年に駿河台に建てたロシア正教の教会、いきさつは司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の冒頭に詳しい。また湯島聖堂はのちの昌平坂学問所として東京大学へとつながる。
聖橋(ひじりばし)は昭和2年造営で、湯島聖堂とニコライ堂との南北二つの「聖(ひじり)」をつなぐから、聖橋となづけた。御茶ノ水駅から聖橋のアーチを見ると、掘割の水面すれすれに赤い地下鉄が通過する。遠く秋葉原の看板群が望め秋葉原電気街に郷愁を誘う。
御茶ノ水の駅はプラットホーム目前に見事な川土手があるが、昭和20年代、小学校低学年のころ、この斜面に小さな小屋が数多くあり、今でいうホームレスがたくさん住んで、獅子文六の小説『自由学校』にも登場する。
近くにいい湧水があり、これが家康の茶の名水につかわれ御茶ノ水の名の由来となった。
戦後の一時期は今のように風光明媚ではなく、近くに東京都清掃局作業所があり、雨の中を、し尿を積んだ汚わい船をタグボートがゆっくり東京湾へと引航していった。
北側に官立の東京帝国大学、高等師範学校、東京女子師範、南側に法律・外国語など、実学を教える私立学校群とに分かれた。たとえば明治法律専門学校が明治大学に、そのほか中央大学などで、主婦の友社、三省堂もある。
作家が忙しくなると缶詰と称し、ホテルに泊りがけで仕事をするが、そのひとつ「山の上ホテル」は今も健在で、ここの天麩羅は折り紙つきと池波正太郎氏が書いていた。
御茶ノ水橋を南へ下ると、神保町の交差点、この辺りは世界でも奇異な古書店街、ときどき国宝クラスの古文書が出る。学生街だから古本屋に不思議はないが、その文献識別能力の高さは世界一で、大英図書館に匹敵するそうだ。店主と同じ知識の図書司など、まずいないだろうとの事。一流の学者や作家がこの古本店主に頼り、いかにも江戸文化の気風が残っている。岩波書店の初代は、帝大を出て、夏目漱石の庇護を受けつつ総合出版社になったが、もとは古書店かららしい。
元米国駐日大使、ライシャワー博士の恩師、S.G.エリセーエフ博士は、神保町の重要性を熟知、大東亜戦争の時、マッカーサー司令官に、京都、奈良、に加え神田神保町を空襲しないようにと依頼したとつたわる。
中学生の頃、親類の者が旨いもので私を誘い、正確には水道橋だが、三崎町教会の日曜学校へゆき、キリスト教文化の匂いを嗅がせた。そのおり近くの洋食屋で食わせてもらった、ラードの香りが漂うクリームコロッケが子供には斬新な味で、神田の記憶は、大人文化とトロリとした西洋の味とが入り混じり、老人となっても記憶の底に残っている。戦前の神田の様子は、小説『石版東京図絵』に鮮明に浮かんでいる。
了
