(62)納豆がうまいぞ | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。

 



納豆が旨いぞ

 

 中学校だったかで「発酵と腐敗はそもそも同じ、人間に役立つものを発酵と呼び、また害があるのを腐敗という」と習った。そのときは「なるほど!」と感心したが、いま思うと、その中間はどうなっているか、確認を忘れていた。 

 

 日本は多神教の国でして、すべてあいまいが最善とされる。○か×か?あるいは白か黒か?などという一神教的決め付け司法関係以外はおおむね「子供っぽく幼稚」とされるから、中間がいいのであります。これは気分の問題であって、学術の話ではないから、しかるべくご同意いただきたい。
 

 ケーブルテレビの放映で、『Always 三丁目の夕日』を再び楽しんだ。昭和を美化しすぎとの意見もあるらしい。しかしですね、多神教の国でどっちでもいいわけで、筆者の記憶では、「おおむねあの通り」と証言しときます。

 ドラマは現在の東京タワーが建築中の話でして、もう消滅していたと思っていたのに、納豆売りの少年が登場した。背景にチョッと出ただけだが、昭和20年代なら筆者にも記憶がある。亡父は大人からよりもなるべく少年から買っていた。アサリ売り、シジミ売りも回ってきた。「旨そうで、売り声がたまらん・・・」と亡父が苦笑していた。「♪あったかいゴハンに、シジミじるーー♪」といい声を伸ばしつつ売り歩いた。

 

 納豆を新しい形態にしたのは、昭和40年代から50年代に入ってからではなかったか。いつの頃か経木(きょうぎ)という木材を紙のように薄く削ったものが使われた。古(いにしえ)の頃、これに経文を書いたから経木だと広辞苑電子辞書にあるがホントかどうかは知らない。本当は竹の皮であるべきところ、「入手困難につき、大変申し分けない」といった弁解がましい幸の佳人のように現れ、すぐに消えた気がする。細長い経木を45度と90度ずつに数回折りたたむと三角形ができる。その中に納豆が入っていた。

 

 経木の三角形は納豆の代名詞で調べたら戦時中の工夫だとのこと。本当の納豆は、わらづと、つまりワラを束ねたものに入っていた。なんでも一本のワラに一千万ほどの納豆菌がお住いとか。煮た大豆をわらづとに入れ、湯たんぽなどで保温し続けると納豆になる。日本の象徴の話はあまりにも恐れ多く避けるが、食べ物の「日本国象徴はご飯である」と常々主張している筆者としては、納豆は稲穂にくっついて離れぬコバンザメみたいに感じる。

 納豆は古くから栄養価が高く、消化もよく旨いから日本人に愛用された。ところで干し納豆をご存知だろうか。北関東で多く愛用されるが、茨城県を例にすると、筑波納豆とも呼ばれ、塩をたっぷりとまぶし、山から吹き降ろす寒風のなか、ムシロに広げて干したもの、子供の頃はよく食べたが、見かけなくなった。あるとき栃木県の店などからネットで取り寄せが出来るとわかった。

 敬愛する発酵学第一人者、小泉武夫教授が著書で薦めておられ、海外へ出かけるときはポケットに忍ばせるそうな。納豆菌は生命力が強く、他の最近などに負けないとか。すると胃腸がおかしいと思ったらすぐに口に放り込んで海外旅行はずっと安泰と先生が書いておられます。


 納豆には独特の臭いがあり、関西の方は苦手とするようだ。干し納豆もしばらくすると匂う。家人(関西出身)が密閉容器に入れよと、厳命を受けた。

 筆者はクサヤも大丈夫だが、フナ鮨となれば自信がぐらつく。学者の先生方は、「こんなもの馴れだから、繰り返せばやみつきになる」と平然とおっしゃるが、「馴れるまでどうするか?が問題なのだ。

 

 納豆、くさや、チーズなど、ウマ味を限りなく追求すると、限りなくウンチの臭いに近づくという。世界の発酵食品には凄いものがあり、カナダのイヌイットは、地中に埋めたアザラシの腹に、海ツバメを丸ごと詰めて発酵させる【キビヤック】というのがあって、冒険家の故植村直己氏が大好きだった、と書いてある。

 もっと凄いのは、スエーデンのニシン発酵食品、カンヅメにしてパンパンに膨らむまで発酵させる。「警告!絶対に屋内で開けてはいけない。屋外でも風下に人がいないか確認せよ、・・・」冗談なのか本当なのかは不明にして知らない。最近はデパートでも買えるようなことが書いてあった。韓国にも凄いのがあり「アンモニア臭で気絶しそうに・・・」と書くほど壮絶で、何事も命を懸けないと一流は駄目らしい。

 先日、赤瀬川原平さんの笑える随筆集『大和魂』新潮社刊を読んだ。何が書いてあるかといえば、ついこの間まで米が大和魂の象徴だったけど、減反政策とか色々と米の存在が怪しくなって、醤油に「大和魂」が集約している旨のエッセイで、チャントした文化評論になっていた。

 

 まず日本料理は基本的に何もしない料理で、刺身など魚肉そのもの、その一方で、フランス料理などはすべて混ぜ合わせ、「ソース」なる味を作り、モッタリ系の味に統一、素材の味は完全無視との条件を提示し、その上で、日本料理の素材だけ精神は、「大和魂」たる醤油の出現で、突然、料理へと昇華すると主張される。少々引用させていただくと、

 

 【引用開始】→海から釣り上げたばかりの魚に包丁を入れ、ただ醤油をたらりと垂らしただけで、もう大変なご馳走となる。醤油を垂らさなかったらどうなるか。マグロのトロはうまいというが、あれを醤油なしで食べられますか。ぼくは辞退する。でも醤油があれば、喜んでいただく。刺身なんて煮ても焼いてもいないただの生の素材なのに、醤油一滴でご馳走になる。ホーレン草だってそうだ。茹でただけではなんとも頼りないものが、醤油一滴で味が生き返る。←【引用終わり】 

 

 と書かれ、他例として納豆、豆腐、生卵、ちりめんじゃこ、山菜、讃岐うどん、鰹、鯵、みる貝、ウニ、イクラ、イカ、

 →【引用開始】「全て醤油が加わるだけでその味が輝いてくる。醤油がなければ全然輝いてこない」→【引用終わり】


と結論されている。
 

 筆者の考えもほぼ同じで、ちょっと砕いて話すと「食べ物の旨み」は発酵から得られること多く、本当は食材そのものを発酵させればいいが、そんなことをしている時間も労力もなく、全て省略、その代わり醤油に下請けさせているのだ。場合によっては醤油の原型、味噌にも孫請けさせ日本料理が成立しているのだ。

 そんな贅沢が可能な理由は、日本の新鮮食材にあり、もっと大事なのは「清冽な水」であります。

 

 お気の毒にも水と飢餓に苦しんだフランス、また支那も「机以外の四足は全て食べる」といわれるほど飢餓に苦しみ、食べられるものを命がけで探した。われわれからすると「とんでもないもの」を無理矢理ミキサーにかけ、ゴタマゼにしてから強引に味をつけ、なんとか料理とした。支那も似たようなもので、特に水の悪さに苦しんだ。可愛そうに蒸し料理ばかりではないか。

 わが日本国の味噌汁を見よ!、ラーメンを見よ!全ての食材がしっかりと姿かたちを保っているではないか?
 

 過日、ミシェラン・ガイドブックとか、東京のレストラン評価が出版されたが無知にもほどがある。週刊誌の中吊り風に言うと、ミキサーが刺身を批評するのが間違いであり僭越なのだ。その逆もまたしかり、刺身がミキサーを批評したらいかん。微笑しつつほっておけばいい。

 フランス料理がある日突然キムチに影響されるなんて許されない。(この部分、ちょっと政治的な嗜好で申し訳なし)。

 

 東京は取り上げたが大阪はどないするねん?広島風お好み焼きはどうしてくれるんじゃ?九州方面は、「どげんとせんといかん!」といい出すに違いない。「平地に乱(平和なところに騒ぎを起こすこと)」はやめたほうがいい。そのうち「東洋タイア((ブリジストンとは書きにくい)の三ツ星評価などが出現すれば争いは激化しタイ国みたいに収拾がつかなくなる。

 そうはいっても多神教の国だから、あいまいに笑っていればいいんだけど、でも、何であんなに高価な店を選んだの?納豆は決して高くないんで、皆で旨く安い納豆を食べるのが日本人なのであります。        
                                    了