「ああモンテンルパの夜はふけて」
戦争が終ると、勝者が敗者へ報復をする。命をかけた殺し合いの直後だから、ある程度のガス抜き、つまりウップン晴らしがないと収まりがつかない。大東亜戦争の報復は裁判の形をとった。勝者はどんな報復も自由で、このときは裁判という形式を取りたかったのだろう。近代法上の裁判とはいわないのが常識だ。
昭和25年10月23日、連合軍総司令部(GHQ)は、巣鴨にあった東京拘置所に対し、48時間以内に立ち退くように命じてこれを接収、巣鴨プリズンと改称し、戦犯容疑者を移監させた。戦勝者たちが戦犯と称する容疑者の逮捕が続き、それらはA級、B級、C級に分別された。
A級は平和に対する罪として、戦争の計画、準備開始または実行、もしくは右諸行為のいずれかを達成するための共通の計画、または共同謀議への参加にかかわった者。B級は通例の戦争犯罪、C級は人道に対する罪に該当する者とされた。
この逮捕・監禁は日本が無条件降伏によって受託したポツダム宣言の第十条「我等は日本人を隷属化する意図も滅亡させるつもりもないけれど、捕虜を虐待したものをふくむ一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を」という条項にもとづくものだった。つまり「戦争中にいじめた奴へは仕返しをするぞ」ということだ。
ご案内のようにA級(いちばんシャクに触るやつ)の容疑者28名は市ヶ谷の旧陸軍省内に設けられた極東軍事裁判所に起訴され、審理の結果、昭和23年11月12日に7名に絞首刑、16名に終身刑、2名に有期刑の判決をいいわたし、12月23日(現・天皇誕生日)に7名を処刑した。
ここまではよく知られる話だが、数の上では、B,C級戦犯が横浜軍事法廷で裁判を受け(戦勝国側は裁判と主張している・・・)はるかに多くの者が絞首刑に処せられた。
巣鴨プリズンには、死刑、終身刑、有期刑の判決を受けた者たちが収容され、武装した米軍将兵が厳重な警備にあたり、BC級の収容者がずっと多かった。そこに朝鮮戦争が始まった。
昭和25年のことで、米軍は朝鮮半島へ多くの将兵を送らざるを得なくなった。巣鴨プリズン警備の人員に困った米軍は、戦争犯罪裁判も峠を越したので、米軍将兵の代わりに日本人刑務官を監視要員とすることを決定、7月24日法務府(法務省)に対して日本人所長以下、389名の刑務官をただちにプリズンに派遣するように命じた。
驚いた日本側は一ヶ月の猶予を求め、了承された。その結果、半数以上の警備官がアメリカ将兵から日本人となり、日本人が日本人を警備するという歴史上類を見ない状況が生まれた。警備官は形式的に米軍に雇用された形となり、命令によりカービン銃を所持させられたが、大抵の警備官は「いざというときは的をはずして撃つ」気持ちだったという。
とうじの警備官を主人公に、戦勝国側のウップン晴らしのための儀式に、日本人が巻き込まれた様子を、詳細な取材により、吉村昭氏が小説『プリズンの満月』に書かれ、裁判という形での「戦勝国側の報復」と、「戦犯は極悪人」とするとうじの世論に、直接ではないけれど、痛烈な皮肉を浴びせている。
戦争裁判は、戦争の勝利者が敗者を裁くという、基本的に公正さを欠くもので、A級戦犯に対しては、国家指導者としての平和に対する罪を問い、多くを極刑に処した。しかし多くの非戦闘員の大量殺害を目的とした都市へのあいつぐ焼夷攻撃、さらに広島・長崎への原子爆弾の投下こそ平和への罪とすべきが常識と思えるが、ここはまったく無視されている。極東国際軍事裁判所の判事の一人であったインドのパール判事は「原子爆弾を投下した国の戦争責任を取らぬ裁判は、本質的に無効だ」と強く主張、日本の常識と一致した。
口に出せば特殊な政党に叩かれるのが明快だから、国民は黙っていた、というか馬鹿馬鹿しくあきれていた。BC級の裁判にしても、俘虜収容所から逃亡したり食料を掠め取ったり、俘虜を殴打したことで極刑に書せられた例があるが、これも「戦時という異常な時期」の所産という意識に欠けている。
戦勝国では、敵国の将兵を多く殺したことで英雄視され、勲章も与えられるが、敗戦国では逆に罪に問われる。これが、人間としての常識である。そうはいっても戦勝国側のウップンをも、ある程度ははらしてやらぬと、おさまりがつかない。なかったウップンをあとからあげつらって文句を言うような教育レベルの低い相手は無視するのがいちばんで、これも常識だろう。
こういうとき、強いほうに味方する輩が出てくる。戦犯を極悪人にすれば自分たちの安全を図れるだろう、との日本人が多かった中で、非難を覚悟して、処刑されていった、あるいはされそうになった犠牲者を慰め、助けた人々が多かった。そのなかに世界的な舞踏家、石井漠(いしい・ばく)氏がいる。無償で劇団員を引き連れ戦犯たちを慰めた。
戦犯は日本だけでなく、オーストラリアやフィリピンなど国外の刑務所にも多かった。フィリピンの対日感情は悪く、死刑囚が多かった。人気歌手だった渡辺はま子氏の活躍が目立つ。歌を通した渡辺氏とモンテンルパ刑務所の59名の死刑囚らとの交流があり、ここの教誨(きょうかい)師の加賀尾秀忍氏と連絡を取り合い、いわゆる戦犯とされた犠牲者とも手紙を交わすようになった。彼女が刑務所にくることを願うものが多く、彼女も必ずいくと返事していた。
前年の6月、加賀尾から送られた手紙に、粗末な紙に書かれた歌詞と楽譜が添えられていた。作詞が元陸軍少尉代田銀太郎、作曲は元陸軍大尉伊藤正康であった。ピアノで弾いてみた渡辺は胸に迫るものをおぼえ、そばで聴いていた渡辺の母は「かわいそうな歌ね」といった。渡辺は作詞作曲家の許可を得て、レコードに吹き込み「ああモンテンルパの夜はふけて」として発売され大ヒットとなった。レコードは蓄音機と共にモンテンルパ刑務所に送られた。フィリピン国防省の許可があり、渡辺はこの年のクリスマスに刑務所へ慰問に出かけた。最初は振袖で「荒城の月」を歌い、中国服、イヴニングと衣装を替え「蘇州夜曲」などを次々に歌った。おわりに「ああモンテンルパの夜はふけて」を合唱、最後に国歌・「君が代」を歌ったが、みな涙にくれほとんど歌にならなかった。
その後も交流が続き、6月17日フィリピンのキリノ大統領がモンテンルパ刑務所に拘禁する日本人戦犯に特赦を発し全員減刑、さらに全員を日本に返還することを発表した。大統領はこの歌をオルゴールで聞いたとされる。民間の動きは大きく、世の中から戦犯を解放していった。
その他、収容者全員を後楽園球場に招き、プロ野球を見せて法務省外務省を驚かせた所長と正力松太郎氏、松島トモ子氏、柳家金語楼氏、多くの民間人が彼らを励ました。また収容者の家族たちは戦犯の家族として、いわれなき迫害を受け、仕事や収入がなく、ホントウに苦しんだ。このため法務省は、収容者らが自由に外出し職につくことを可能にさせた。戦犯たちは自由に出歩き、彼らを拘束する規定も形骸化していた。
戦犯の世話会ができ、恩給法、援護法の改正を政府に要望した。しかし、国内には戦犯を極悪な罪人とみなす空気が根強く残り、戦犯を暖かく遇することは軍国主義の復活につながると唱えるものも多く、政府は世論の動向を意識して立法化にふみきる姿勢を見せなかった。世話会は国会議員に働きかけ、民間団体もこれを強く支持、国会議員の動きも活発となり、援護法のみが国会を通過、刑死者と獄死者の遺族に遺族年金と弔慰金が支給された。
こうした状況は戦争裁判からわずか八年で、「裁判そのものが本質的に何の意味なかったこと」を示すものだった。巣鴨プリズンは有名無実な存在となった。ここに「戦犯というものの問題を解く鍵がある」と吉村昭氏は「あとがき」に記している。クレームをつけたがる諸外国も、「人道に対する罪」など、国際法にまったく判例がなく、連合国側は拘禁の根拠を失っていた。すべてが虚構の上にあった戦犯だった。巣鴨プリズンは、現在の池袋サンシャインビルの位置にあった。刑場のあとには小さな石碑がたち「永久平和を願って」と遠慮がちに刻んであるという。碑は「戦犯を美化するもの」という強い反対の中で遠慮がちに建立された。
引用本:『プリズンの満月』吉村 昭 新潮社 平成八年第六刷
