ホテル事始め
安政6年(1859)アメリカから妻クララを伴い、来日したヘボン博士(1815~1911)は医師であり、キリスト教伝道者だった。日本初の和英辞典『和英語林集成』を編纂(へんさん)、この辞書で使った英文字による日本語表記法がヘボン式ローマ字で、日々キーボード英字入力でお世話になる。また明治学院大学の礎を創設した。妻のクララは、日露戦争戦費のため外債公募に成功した高橋是清(たかはし・これきよ:後に内閣総理大臣)に英語を教えた。
明治4年日光を訪れたヘボン博士は、楽師だった金谷善一郎と出会い、自宅に泊めて貰った。博士は夏が暑く、慣れぬ外国人が苦労していることを伝え、ひと夏の間、自宅を貸す者はいないかと金谷に相談、それならと金谷は民宿を始めた。名前をコテッジ・イン(Cottage Inn)とし明治6年に開業した。今も営業中のホテルとして最も古い。日光には中禅寺湖に諸外国大使館などの別荘が多かったが、金谷の功績によると見ていい。民宿には客が増え、周囲の家々を借り、家族総出で外国人のお世話にあたった。まだ肉やミルクが一般的でない時代、肉料理は客が自ら庭で調理など、自然にルールができ、金谷もハムエッグなどを作ったという。二人の男児がいたが、次男の【金谷正造】はドラを鳴らし歩き、周囲の家の外国客に食事タイムを知らせた。
増築を重ね、調理場や食堂もできた。明治26年(1893)に現在の地、日光ご神橋の高台に、木造二階建て30室を新築・金谷ホテルとして営業を開始した。明治34年に新館が完成、本格的ホテルとして稼動する。この頃電話に加入したが、番号は「日光の1番」であった。また明治41年に独自に水力発電所を新設、ホテルを電化した。周囲はまだランプの時代だった。大正12年にスチーム暖房全館完備、同15年には牧場部を設け、食材問題を解決した。また昭和3年に株式会社化した。翌年、東武鉄道日光線が全線開通、昭和10年には別館が落成、三階建て24室とし同時に本館も三階建てに改修した。
ドラを鳴らして食事タイムを知らせていた次男、【金谷正造】が明治40年【山口仙之介】の娘【山口孝子】と結婚、山口家の娘婿となる。山口仙之介(1851~1915)は箱根・富士屋ホテル創始者である。青雲の志でアメリカ渡航したが、苦難が続き失意のうち種牛7頭と共に帰国、慶應義塾に入学した。福沢諭吉から国際観光の重要性を説かれ、①外国人が好む富士・箱根 ②東京・横浜からのアクセスがいい ③温泉がある などの条件を満たす箱根で、牛売却の資金でホテル営業を始めたが、明治16年(1883)宮の下大火で消失、翌明治17年再建した。バジル・ホール・チェンバレンが、しばしば訪れた。東京帝大で教えた日本学者で、初めて俳句を英訳した。毛筆で揮毫(きごう)をしたという。イギリス人で小泉八雲と交流があり色々な世話をしている。蔵書を東京の自宅からホテルに移し、王堂文庫と名づけた。なお仙石原に牧場を開設、食材問題を解決した。明治24年に本館を建設、このとき火力発電を開始、2年後に水力発電とする。このときの建物は、改修などはあったが、基本的に現在と同じ建物である。
その後米国製のバスを購入、真っ赤に塗るなど常に話題づくりに挑戦し続け、娘婿の山口正造も米国を視察、進取の気風を保ち富士屋ホテルの基礎を築く。社史に詳しい担当者は「福沢諭吉の影響が強いと感じる」と話された。「万国ヒゲ倶楽部」などを作っている。ヒゲの長さが2インチ(約5センチ)以上が会員資格だった。大正12年関東大震災でかなりの被害を受けるが、それほどの被害ではなかった。昭和11年には(1936)本館が完成、花御殿(はなごてん)として43室に花の名をつけた。設計は【山口正造】である。
箱根宮下に現在も営業中で、唐破風(からはふ)屋根の珍しい建物、内部の精巧な造りと装飾に驚かれるはずだ。著名人も多数訪れ、チャップリンなどが、戦後はヘレンケラー(昭和23年2度目の来日時)、保守党党首のサッチャー(昭和52年)、宇宙飛行士アーム・ストロング船長の名前など各界に及ぶ。サッチャー氏は首相就任後、日産自動車を英国に招き、現地操業させ雇用増大を計った。日本に対する信頼感はこの時の印象からかと推理するのも楽しい。
金谷ホテルには、大正11年にアインシュタインが訪れた。ノーベル賞受賞を日本に向かう船中で知った。このため授賞式には欠席している。またイギリス女性探検家のイザベラ・バードは『日本奥地紀行』を書いたが、明治初年の日本奥地を馬で巡り【アイヌ探訪記】などで知られるが、金谷ホテルに2回訪れた。この人は中国・朝鮮・日本を詳しく欧米に紹介した。(平凡社・東洋文庫)また大西洋単独無着陸横断飛行に成功したアメリカの英雄、リンドバーグ(1902~1974)夫妻がくつろぐ写真も残る。
箱根富士屋ホテルの記録には、東京オリンピックに備え「富士ビューホテルを新築した」とあるが、これは昭和15年に予定された幻の東京オリンピックの話だ。
両ホテルとも戦争終了の昭和20年(1945)に米軍に接収され軍の施設として使われ、日光金谷ホテルは昭和27年まで、富士屋ホテルは昭和29年まで接収解除されなかった。軍関係者とその家族だけとは、文化的にじつに惜しいことをした。
返還後は世界から多くの観光客と文化人を招きいれた。訪れた方々の写真が、富士屋ホテルに隣接する「嶋写真館」ウインドウにある。ご覧になると日本現代史を実感できる。
両ホテルとも落ちついた重厚な雰囲気がある。日光東照宮を造り、維持管理を続けた宮大工らが手を貸していると知り、ナルホドと納得した。両ホテルとも登録有形文化財として登録されている。昭和32年に日光金谷ホテルに昭和天皇・皇后両陛下がご宿泊された。
日光金谷ホテルは2003年に130周年記念行事を行った。箱根富士屋ホテルは5年遅れで、今年2008年に催す予定。ほとんどの一流ホテルも民宿のごときから、世界有数のホテルへと、わずか100年で完成した。外交とは外務省だけでは不可能で、ホテルの印象が大きな影響をあたえる。個人的な印象を書き恐縮だが、日本ほどホテルの質がいい国も珍しい。とぼしい経験から厚顔無恥の至りだが、実感だと証言しておきたい。

