五四運動と趙家楼(放火してボコボコにした学生運動) | 北京にいないみどりの果敢な北京生活

関連するところへ行くので、覚書。

 

<五四運動>

五四運動は、1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果、日本の対華二十一カ条要求に対する不満から発生し、中華民国の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動。

 

<曹汝霖(そうじょりん)>(1877~1966年)

上海生まれ。漢陽鉄路学校を経て、1900年(光緒26年)に日本へ留学。東京専門学校(後の早稲田大学)、法政大学で学んだ。帰国後、外務部副大臣に。1915年(民国3年)1月、外交総長陸徴祥とともに、日本の駐華公使日置益との二十一カ条要求交渉に臨んだ。5月に袁世凱は要求を受諾しているが、国内からの反発は強かった。

<略>

パリ講和会議が開催されたとき、曹汝霖は徐世昌(大総統)に対し、日本の意思に沿って解決するよう進言した。これが中国国内世論の激しい憤激を招くことになる。このため、五四運動において曹汝霖と陸宗輿(幣制局総裁、前駐日公使)、章宗祥(駐日公使)の3人は「売国奴」として糾弾。さらにデモ隊の学生達が趙家楼にある曹汝霖の邸宅を襲撃。曹汝霖は身を隠したが、たまたま帰国していてその場に居合わせた章宗祥は学生達の殴打を受けて負傷し、邸宅も焼き払われた。6月10日、曹ら3人は役職罷免、講和会議代表団もヴェルサイユ条約調印を拒否した。

<略>

曹汝霖は交通銀行総理などを再び務めたが、国共内戦期に帰郷。後に台湾に逃れ、1950年日本へ亡命し、吉田茂の保護を受ける。1957年にはアメリカへと移住し、デトロイトで死去。享年89歳。

 

 

<趙家楼>

原为明代在位时间仅6年的明穆宗隆庆朝文渊阁大学士赵贞吉的宅邸,后来成为曹汝霖的第宅。因五四运动中的“火烧赵家楼”事件而闻名中外。解放后,曹旧宅已全部拆除,在原址建起了新楼房,为某单位招待所。1984年5月,为纪念五四运动65周年,北京市青年联合会和共青团东城区委联合在赵家楼胡同1号的东院墙上镶嵌了一块“五四运动火烧赵家楼旧址”铭牌,以为永久纪念。2002年5月1日,赵家楼遗址正式对外开放,成为爱国主义教育基地。

元は明代の文渊閣大学士だった趙貞吉の邸宅。のちに曹汝霖の邸宅に。解放後、家ごと取り壊し新しく建て、某所の招待所となった。1984年、五四運動趙家楼旧跡の記念碑を建てた。

 

<赵家楼饭店>

跡地は「赵家楼饭店」としてホテルになっており、レストランも利用できる。

http://www.dianping.com/shop/2422099

 

 

以下は五四運動と関係ないが、近いので行ってみるとよい。但し、レストラン以外、中へは入れない。

 

<北总布胡同2号>

北总布胡同2号宅院原来是美国洛克菲勒基金会董事长1918年用兴建协和医院的剩余建筑材料为其父母建的住宅,他们直到1942年12月7日珍珠港事件发生后才离开这里。抗日战争后期,该宅院被日本人霸占,直到抗日战争结束。1946年1月,该宅院成为军调部国民政府代表驻地。1947年2月至1948年,孙连仲(国民革命军二级陆军上将,抗日名将)在此居住。后来被龙云(抗日爱国将领,云南省政府主席)家所有。中华人民共和国成立后,陆定一(共产主义战士,无产阶级革命家)在此居住,陆定一逝世后该宅院仍然归龙家。2011年,被公布为北京市文物保护单位。保存情况较为良好。

1918年にロックフェラーが協和医院を建てて余った建材で両親のために建てた住宅。彼らは真珠湾攻撃(1941年12月8日)の後、北京を離れた。抗日戦争中から終戦まで日本の官僚が住んだ。1946年に軍事調処執行部国民政府の駐在所となり、1947年から48年は孫連仲、後に龍雲、1949年の建国以降は陸定一が住んだ。

 

<东总布胡同内53号院>

东总布胡同内53号院,该处原是大杂院,三十年代,陈觉生购得,陈当时任北平铁路局局长,用贪污铁路上的材料盖起了一座大宅院。北平沦陷后,陈觉生被日本人毒死,该宅被伪警察署一日本顾问官所得。抗战胜利后,此处为国民党警察部门。解放后为作家协会所在地。1965年整顿地名时,将忠厚里、小丁香胡同并入。

1930年代に北平鉄路局の陳覚生局長が横領で建てた家。のちに日本人に毒殺され、警察署の日本人顧問官が所有していた。その後は国民党警察部門を経て、作家協会が使用。

 

<貢院>

贡院是科举时代考试士子的场所。科挙(官吏登用試験)の試験場。建国門の北西がその場所で16000も試験用の部屋があったのに、今は何も残っていない。ただ「贡院」という地名だけが残っている。

北京贡院最鼎盛时有16000间“号棚” 却因为他沦为荒地

1937年“七七事变”之后,日军一个团部4000多人驻扎在贡院和古观象台。不久,日伪当局决定于北京贡院旧址建立日本神社,1940年6月建成。直到1945年日本战败投降后被废。

この「贡院」と向かいの「古观象台」(気象台)に日本の軍人が4000人余り住んでいた。1940年に日本神社を建てたが、終戦で解体。

 

<朱启钤故居>

<马寅初故居

 

<贡院蜀楼・川办餐厅>

川办四川省人民政府驻北京办事处)のレストラン。北京は首都なので、各省の地方政府の北京事務所があり、ホテル、レストラン併設。全人代など地方政府の偉い人が北京に来たときに泊まったりする。レストランはコックさんも現地の人なので、本場の味が楽しめる。ここは四川政府のレストラン。

大众点评

過去記事「同窓会で異性と交流」

 

 

<参考サイト>

世界史の窓 五四運動

中国五・四運動100年 権益侵す日本に抗議/学生デモをたどる

・Wikipedia曹汝霖

火烧赵家楼的原因是什么?

五四疑云:谁放火烧了赵家楼

 

 

私が2016年にこのあたりに行った忍者ブログの記事と地図。

朱啓鈐故居,趙家楼

貢院、東総布胡同、火焼趙家楼紀念碑

 

 

A 地铁建国门A口

B 社科书店

C 贡院蜀楼(川办)

D 东总布胡同53号(中国作家协会宿舎)

E 东总布胡同32号(马寅初故居)

F 火烧赵家楼纪念碑

G ゾウ

H 建国门社区博物馆

 

 

 

 

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