19年前の作品
横浜美術館で開催中の収蔵品展に、私の昔の作品が展示されている、と教えてもらった。

作品は1994年制作の板ガラスをつかったドローイング。
写真家の佐藤毅さんが、内覧会で私の作品を見つけて、展示の様子を2枚の画像で送ってくださった。佐藤さんとは私が20代の駆け出しのころからのおつきあい。いつも気にかけていただいてありがたい。
手元を離れた自分の作品が、公の場所で一人歩きをしているのに出会うのは不思議な感慨がある。
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学生の頃から、陶の立体を作るだけでなくそのスタディとしてドローイングをたくさんつくるよう心がけていた。
いろいろな材料で、いろいろなアプローチを試みてきた。この板ガラスを使ったドローイングは、集中的に100点近く作った。
その時期のアトリエの様子が、以下の記事になっている。「contemporary artist review」誌が作家取材に来てくれて、6ページの記事にしてくれたのだ。
繰り返し作り続けているうちに、アイデアも尽きはてる。それでも何か捜すように続けていると、手応えのあるものができはじめるような気がしていた。
そのスタンスは今も変らない。

(終)
盲視の知覚
ギャラリー小柳での個展が、先週終了いたしました。
暑い中、お越し下さった皆さま、ありがとうございます。
広い会場で、思い通りの展示をすることができました。
たくさんの反響をいただきました。
Thank you again.
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恵比寿のMA2ギャラリーで、グループ展に参加しています。
評論家 倉林靖氏の企画で、「盲視の知覚」という展覧会です。
9/1 ~ 9/30
http://www.ma2gallery.com/current.html
京都の鴨川の砂を焼いて画材にして描いた「Kama River」シリーズや立体を展示します。
自然光で作品んを見てもらえます。
お近くにお越しの際は、お立ち寄り下さいますよう。
終
震えること・揺れること

資料を整理していたら、昔の文章が出てきました。
1994年に竹橋の東京国立近代美術館 工芸館の企画展「素材の領分」に参加した時に、東京国立近代美術館ニュース「現代の眼」(479号)のために執筆したものです。
18年前。
節くれ立ったようなぎこちない文章ですが、言いたいことは今も変わっていません。
以下に転載します。
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震えること・揺れること
私のアトリエは周りの木々の為、昼間でも多少薄暗い。それでも明かりをつけずにいるのは、部屋の奥まで入ってくるやわらかな自然光で作品をみるためだ。 先日、息抜きに外に出て深呼吸をした後、太陽のつよい陽射しの中で目を閉じて立っていた。そして暫くそんな風なことをしてアトリエに戻ってみると、部屋全体が青く見えた。目が眩んでしまったのだ。
白い壁は青白く見えた。その壁には私の直方体の作品がたまたま一つ掛っていたのだが、その様子も周囲の空気を含めてそれまでとは違って見えた。 もともと灰青色のその作品は、青白い壁に対して少し暗い青色で浮かび上がり、そのかたちがほんのわずかだが動いているように見えた。それは不規則な震えのようであり、揺れているようでもあった。まるでそこに在りながら後ろの壁とまわりの空気に、ある親和力をもって溶け出しているかのようだ。
しかし、その一方ではそれ自身確固として「そこに在る」。「融合」でも「分難」でもなく、またその両方でもある状態。それはかねてから私が未知の感覚として、あるいは予感として想い描いていたものだった。 アトリエの壁の小さな空間に、陽射しで眩んだ目が元に戻るまでのほんの一瞬、立ち現れた映像だった。
私は、力強さや激しさといったものが、そのまま直に表れているようなものよりも、それらが一旦奥に仕舞込まれた状態としての「静」のイメージを好んでいた。更にそれを内に蓄えた力が外部と拮抗する事で止まった「静止」した「状態」を想い描き、そんな状態のあれこれについて考えていた。
ところが、太陽光で眩んで見た光景は、一見して確かに「静」ではあったが、決して「静止」してはいなかった。ものが内包する力が外部と拮抗するということは、力がつり合って安定した「静」ではなくて、常に危うい均衡のうえにあることを、直方体の揺れや震えが示したのだろうか。
この「危うい均衡」によって、ものとその周辺の存在感の関係は、ものそのものの存在感が周囲の存在に負けてしまったら、そのものはちっぽけで意味のないものに成り下がって空間に融合されてしまう。ものが勝っている状態では、そのものだけが力強く恒常的に空間から分離・独立した強烈な存在というだけで、何等調和のない状態になってしまう。しかし、アトリエの壁にあった直方体が微細に震えて外部と拮抗していた様子は、同時にこの両方の状態で有り得ることを示すものである。これをもののもつ「(存在の)輪」とでもいうなら、私はつくり手としてこの「幅」をはらんだものと、この「幅」から立ち表れる状況をつくり上げてゆきたい。
私たちは「可・不可」「強・弱」というような二つの極による基準に照らし合わせて物事の便宜をはかることに慣れすぎてはいないだろうか。幾つもの極で同時にはからないと見えてこない感覚を旨く形容できない時、「曖昧な」とか「やさしい」などの表現で片付けていないだろうか。
ものごとを認識するときに、消えていかざるをえない感覚を「幅」としてとらえるなら、他にも沢山あると思うのだ。それはありふれた事であたりまえすぎて問題にされないのだろうか。それとも私たちの認識の網には、引っかからないかたちをしているのだろうか。
大切なことは、いつも特別なことのなかよりも、むしろありふれたことのなかに何くわぬ顔をして潜んでいると思う。その辺に打ち捨てられたものですら、奥にしまい込まれていた「幅」や「力」が何かの拍子にはたらいて、周辺に静かで、広がりのある親密な空気を放つことがあるのを私は知っている。ものをつくる時、その事を意識しすぎるとできたものは何か偏平な印象のものになる。そんな時ものをつくる営みのからくりの面白さと切なさを感じる。
終
試験管


骨董市で見つけたという古い試験管を、ある方から頂戴した。うれし哉。
その方には、以前陶粉を試験管に入れてお見せしたことがあって、陶粉はどんな容器に入れるのが良いか気にかけてくれていたのだ。
長さ43mm、直径10mmの試験管が43本とコルクが60個ばかり、新聞紙にガサリと包まれてた。
ガラス管を切って、片方をバーナーで炙って溶かして平らな底を一本一本手作業で作ったものだろう。見ただけではわからない程度に、歪みやバラツキがあって、なんともいじらしい感じがする。
かつて、こういうものを手で作る仕事があったに違いない。
コルク栓を抜こうとしたら、途中で折れてとれてしまった。相当に時間が経っているようだ。
いつ頃のものだろうか。
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試験管とは話が違うが、ガラスの一升瓶が機械生産されるようになったのは大正11年らしい。
ガラスの一升瓶を家庭で使うようになるまでは、液体の保存容器として陶製の大徳利や木製の桶が使われていたわけだが、機械生産のガラスの一升瓶が全国津々浦々まで普及するには、物流のスピードを今と比較すると、相当に長い時間がかかったははずだ。
これはまったくの憶測なのだが、おそらく昭和10年代になっても、陶製の大徳利を作るのに、ロクロを回して生産していた工房がいくつもあったのではないかと思う。
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いただいた試験管は、ガラスの試験管を機械で作り始める前の時代に作られたもだろうか。
あるいは、こんな小さな試験管を探して注文するより、「作った方が早いや。」と手先の器用な先生が理科室のバーナーで作ったのだろうか。
終








