言葉で説明できない段階をさらに探求していく段階がある
その部分は後生に伝わっていないし、後の人が自分の理解できる範囲で注釈をつけたものが、また後の時代に伝わっていくので、正しくないものが正しいとされて伝わっていたりする
結局、自分の脚で歩いてそれを体験するしかない
かつてインド仏教と中国仏教の争論において(サムイェー寺の争論)中国側が敗け、その流れをくむ禅は正しくないと主張する人達がいる
ところが、近年チベット仏教のゾクチェンと達磨大師の頃の禅の類似性に関する研究が出てきていて、初期の禅はゴータマ·ブッダの正当な後継だという
私が師に参じていてもこの点は一切疑わないし、お会いすればするほどそれを確信する
自分が今経験している事は、いくら探しても同じような体験を読んだ事がない
唯一、ハタプラやシヴァサンヒターの中に見られるくらい
研究者ではなく、ソレを実際に体験していないとそこへ導くことはできない
修行が進むとその道はどんどん狭くなっていき、究極に至れば、全ての道は一つにたどり着く
師に出会えた事、その縁を紡いでくれた方々
修行を支えてくれる家族に感謝しかない