改めてゴールドボーイの脚本について触れたい。(ネタバレしてるので、未見の方はご遠慮下さい)


この映画のネタ元になった中国ドラマ「バッド・キッズ 隠秘之罪」(12話)を昨日までサブスクで観たから。


まず、この原作をよくぞあそこまで日本仕様にそれも2時間弱にアレンジ出来たものだと港岳彦氏の功績を讃えたい。


主人公の男の子と女の子を高校生の青春カップルに置き換えたのも頷けるし、舞台を沖縄にしたのもドラマのリアル感を持たせるために必要だったと思う。


それと、一番はポイントをより金銭奪取という明確なテーマに置き換えたことだ。

中国版のドラマは、子どもの犯罪(恐喝)ということで、途中から分かったうえで殺人犯が自ら金銭を渡す話にすり替わっていた。


しかし、このゴールデンボーイは大人のサイコパスと子どものサイコパスを最後まで戦わせた。

ただ、難点は好きだった彼女にキモいと言われて殺している。

原作の辻褄合わせと、実は典型的なサイコパスだったとするために、どうしても必要だったのだろうけどね。


さて、こっからが本題だが、漫画や小説を原作として映像化するには、どうしても設定変更は免れないのではないだろうか?


この映画も中国設定の話を日本風にするためにアレンジは必要だったし、2時間余りに納めるためにキャラクターの変更もやむなしだったろう。


ゆえに、自分の漫画や小説の映画化を許可するなら、飲食店に食材を卸すつもりで売るしかない。

食材なのだから、もはや何の料理(映画)になるかは分からない。しかし、その覚悟はいると思う。

そういう気持ちになれない、もしくは未だ連載中ならば、決して映像化を認めないことだ。


ただ、連載中の漫画を映画化させ、そのラストを逆手に取って漫画のラストを作り込んだ、

「僕だけがいない街」(作者:三部けい)は凄いと思った。

そのことを映画プレビューに投稿したら速攻消されたけどね。

それぐらいの策略があれば、映画化で漫画を広く認知させ、そして、ラストを変えたことで映画を観た人間さえ唸らせた。


俺の好きな映画「太陽がいっぱい」だって、原作とは異なり、完全犯罪は失敗に終わる。

失敗に終わるからこそ、あの主題曲も相まって、観た者の心を揺さぶったんだ。