血を分けた親子でも最近は毒親なんて言葉があったり、尊属殺人も増えてる。


人と人が分かり合うことがやっぱり一番難儀かもね。


イヤイヤうちの子供は親思いで完璧な家族ですと自慢げに言う人もいるかもしれない。


しかし、それは親が望む理想像を子供が演じているだけかもしれない。


イギリスの映画で「リトルダンサー」という映画がある。厳格な父親の元で育った気弱な少年がクラシックダンスに目覚める映画だったと思うが、厳格な父親は気弱な息子が気に入らず、なんとか男らしく育てたいとボクシングを習わせ厳しく接する。


しかし、息子がクラシックダンスに興味があることを知ると、それを全力で応援するようになる。

俺はこの映画を観て泣いた。

息子をちゃんと尊重し応援する父親の姿に。


分かりあうとはお互いを尊重し、気遣いが出来るということだ。

これが如何に難しいことか皆さんも身にしみていることだろう。


中には、人に自分のことを理解などされてたまるものかと拒否する人間も増えている。それに自分さえ良ければ人のことなど知ったこっちゃないと考えている自分至上主義の人間もかなりいる。

少子化も影響しているのは間違いないだろう。


子供の頃から下にも置かない育てられ方をしてきた人間が人に気遣い出来るようになることは容易ではないだろう。


失敗やくじきからの立ち直りが優しや気遣いを人間に覚えさせるからだ。


そして、家族の中でも理想と現実のギャップに苛まれ、かくして理解しあおうなどということはとうに諦める。


もしくは、すすきの首切り事件の親のように子供を全肯定してしまう、ある種の主従関係を作り上げてしまうのかもしれない。


社会性のすべては家庭環境に原風景があるだろうし、それがもはや機能してないのは2021年の15歳から39歳までのニート人口が75万人、40才以上のニートももはや61万人もいるという数字に現れている。

人口割合にすれば2,3%程度に過ぎないとはいえ、ある意味それでも生活が成り立つ家庭環境とも言える。


ネガティブな羅列にはなってしまったが、だからこそ、家庭、学校、職場、地域で少しでも分かり合い、分かち合える存在がいることはどんなにか幸せだろう。


年齢を重ねるにつれ、それを強く意識するようになった。  


なぜなら、少しでも会話を重ねれば大体の人となりは見えてくるようになったからだ。


物腰の柔らかさ、泰然自若とした姿。立ち居振る舞いの美しさ・・・。


一朝一夕で培われるものではない。だからこそ、そうした人と出会えた縁というものも嬉しく有り難く感じる。


人は一人では生きられない社会性動物であり、だからこそ、出逢うという縁はその人の人生そのものを変えてしまう、とても大切なものだ。


親子、親戚、友人、知人、職場のそして、恋人、結婚しての配偶者。

ありとあらゆる人間関係がややもすればストレスの第一要因となる。


しかし、これも結局は自身の受け止め方が肝要だ。


負担にしかなってないのに切れずにいる関係。

馴れ合うばかりで成長を伴えない関係。

そして、親ガチャやコスパなどとしか考えない人間が増えている現代社会で、


少しでも’’意気に感じられる‘‘人間と、その場限りでしか出会えなかったとしても、「ああ、今心地よいなと思える。」

そして、その関係性を大切にしたいと切に感じる。


なぜなら、ままならない人生を幾度となく、そうした人との出会いで救われてきたこと。

それは私の財産だと誇れるし、その方々には感謝してもしきれない。

つくづく思う。自分は本当に恵まれた人生を歩んでこれたと」