2024年11月は相変わらずで過ごしていた。
私は殆ど行かず、(偶に思い出したように行くこともある)甥っ子姪っ子は毎日のように見舞っていて、
相変わらず(食事の)好き嫌いを言い、毎日のようにねぇちゃん家へ電話をし、何やこれやと買ってきて貰い(それらは必ずNsの検閲を通る)そんな日々。
この頃、母はねぇちゃん(母の妹)に言った、
「ここは姥捨て山じゃな」と。
自分がひとりで(家族と)離れた状況に置かれて居ることへの言葉だと思う。
実際、一緒に暮らしていた弟の家、母の部屋はとっくに片付けられ状態になってた。
ベッドは早々に畳まれ、諸々の荷物(服など)も処分が始まっていた。
最初の入院、今回の転院先、次の緩和ケア病院、その都度の面談で私は言っていた。
「とても家で看れる状況ではないです」と。
弟夫婦に看取る意識も決意も技量もないことは明らか。
それは、母の歩んだ人生そのもの。
かと言って、私にもその覚悟も気持ちも無い。
今思うと・・寂しいな、悲しいな、おかぁちゃん。でも、それは、全部あんたがしてきたことやで。
ごめんけど、私はこれ以上に寄り添えん。
この頃、私は自分の最後はどうだろうかと重ね合わせて考えたりもした。
見舞った時、母は言った、(自分で動いてトイレなど出来るようにならないと・・と話した時)
「頑張ってリハビリして、正月には家に帰れるように頑張る」と。
そして12月、坂道を転がるように変わり出す。