弘法大師の真筆
上杉神社蔵 綜芸種智院式並序
(しゅげいしゅちいんしきならびにじょ)
今から千百五十年程前の天長五年(828)十二月十五日は、弘法大
師が庶民の為の学校として設立された綜芸種智院(しゅげいしゅち
いん)の設立趣意書と、その学則とも言うべき「綜芸種智院式並
序」を書かれた日に当ります。
この文章は、「続性霊集巻十」に収められていますが、弘法大師
が書かれたこの文章の真筆が、米沢市に上杉神社の宝物として伝え
られ、大正四年(1915)に文部省重要文化財の指定を受けています。
弘法大師即ち僧空海は、光仁天皇(こうにん)の宝亀(ほうき)五年
(774)六月十五日、讃岐国多度郡(たどのこうり)屏風浦(びょうぶう
ら)に佐伯氏(さえき)の子として生まれました。
幼名を真魚(まな)といい神童の誉高く、十五才の時京に上って大
学に入り儒学を修めていましたが、次第に志を仏教に寄せるように
なり、石淵寺(いしぶしでら)の僧勧操(かんそう)の坊に籠って三論
(さんろん)の奥儀を研究しました。
得道(とくど)したのは十九才とも、二十才、二十五才ともいい、
異説がありますが、近親の人は、その才能を惜しんで出家を思い止
めようとしましたが、断然として、これを斥(しりぞ)けて入道した
といわれています。
このようにして精励(みちにはげむ)こと数年にして経文の理論を
極め尽すに至りました。師匠の勧操は、その非凡な才能を認め朝延
に留学生として推挙しました。
こうして空海は唐の国に留学することになりました時に延暦二十
三年(804)五月、空海三十一才の時でした。橘逸勢(はやなり)、僧
最澄(さいちょう)と共に空海は唐に向い福州から長安に入りまし
た。
そして逸勢と共に西明寺(さいみょうじ)に起居して法を求めるこ
とに専念、真言密教(しんごんみっきょう)の血脈第六代の祖不空三
蔵(ふくうさんぞう)の門下恵果(けいか)阿闍梨(あじゃり)について
金胎両部(こんたいりょうぶ)の奥儀(おうぎ)を極め、遍照金剛
(へんじょうこんごう)の号を授けられました。
更に各地の寺院を遍歴して名高い学僧を尋ね歩き、諸芸の達人に
親しく教えを受け、悉曇学(しったんがく)・詩書文学・医学や薬
学・礼儀法律から造紙造筆(かみつくりふでつくり)の術に至るまで
万般の学芸を修得し、平城(へいじょう)天皇の大同元年(806)に帰
国し、真言宗を開き、高野山の霊場を開いて国家鎮護の道場とし、
僧最澄の没後は国内の信望を一身に集め、天長四年(827)に大僧都
の位につけられました。
六十二才で亡くなりますと、没後、文徳(もんとく)天皇は大僧正
の位を贈られ、醍醐天皇は延喜十一年(911)弘法大師の勅号を賜わ
ったのでした。空海は、このように真言宗を開いたばかりでなく、
万濃池(まんのういけ)の改築に努力し、或いは妙薬を教えて病人を
救うなどの社会救済に尽し、更に多岐多能にして古今の学に通じ数
多くの著書を残し、文学・絵画・彫刻と、学芸の道に貢献する処、
実に大なるものがあったのでした。
中でも、書道に於ては万代不易(ばんだいふえき)の偉業を残し、
嵯峨天皇、橘逸勢と共に我が国の三筆(さんぴつ)と称されていま
す。空海は唐の国に留学しているうちに既に「五筆(ごひつ)和尚」
の称号を贈られた程で、まさに日本の王義之(おうぎし)とも言うべ
き不世出の能書家でした。篆(てん)・隷(れい)・真(しん)・行(ぎ
ょ)・草(そう)等八体の書道に通じ、規模が大きく堂々としてい
て、その書の中に才気煥発(かんぱつ)し覇気に富み、精力的な空海
の風格が偲ばれるのです。
この空海が晩年、その念願であった学校の設立を実現して、自ら
設立趣意書を認(したた)めたのが「綜芸種智院武並序」で、これ
は、独特の書風が確定した後のもので運筆も洗練され、軽妙自在の
筆致を見せ、精妙にして明るく澄んだ筆触(ひっしょく)は、特異の
書の美しさを発揮しているのです。
さて、この綜芸種智院とは、空海が唐の国に留学していた頃に、
深く印象づけられ、刺戟されて作られた学校です。当時、日本では
京都に国が建てた大学は一つありますが、この学校には、家柄が五
位以上の身分の子弟が入学できるだけで、六位以下の子弟や庶民の
子弟には入学出来る学校がなかったのでした。
また、私立の学校としては、去備真備(きびのまきび)がはじめた
二教院(じきょういん)と石上宅嗣(いしのかみやかつぐ)の開いた芸
停院(うんていいん)とがありましたが、これまた、貴族の子弟を入
学させる学校なのでした。
空海はここに身分の低い人でも志さえあれば自由に学問ができる
世の中を作り、文化的水準の高い国を作り万民が幸せを得ることを
願って創(はじ)められたのでした
綜芸種智院式並序に書かれた内容は、序文と、師を招く章と書い
た招師章(しょうししょう)から成り立っています。
先ずその序文では
「京の九条の地、その風光と環境に恵まれ所に学舎(まなぴや)を
造り、孔子・老子・釈尊の教を広めて世を済おうと思います。その
学舎を名づけて綜芸種智院とし、ここにその学則を記します。ここ
に学ぶところの諸学芸は全て人生の為、国家繁栄の為に必要なもの
です。
一つの味だけでは料理にならず、一つの音色だけでは音楽になら
ないように、儒、老、仏の教えを総合して、はじめて意義が生まれ
ます。それは、大空に日と月と星が輝いているようなものです。海
が大きいのは多くの川の清濁を合わせるからです。
この学校の趣旨に賛同する多くの人の協力によってその教育の効
果をあげて参りたいと思います。支那では大・小・公・私立の学校
が何処の地にもあり従って才芸の士が国に満ちています。我が国に
は一つの大学があるばかりです。貧しい賤(いや)しい身分の人々は
学ぶに道もありません。この為にこの学校を建てたのです。国家人
民の福利を図るために微力を尽し、後の世が安楽になるように努め
ましょう」
と述べ、次いで師を招く章には
「凡そ道を学ぶには、四つのものが必要です。処と法と師と衣食
の資がそれです。今、処と法がそろい、衣食の資があるからには、
先ず師、即ち先生を求めねばなりません。仏道を教える先生、儒教
を教える先生それぞれに教えるべき事柄がありこの両者は離れるも
のではありません。慈悲の心を持ち忠孝の心を忘れず身分や貧富の
差別は一切見ないで、倦(う)むことなく指導に当ることを望みま
す。三界は悉く吾が子であり、四海は全て兄弟であることを忘れて
はなりません。
人は衣食住がなくては生きることはできません。道を弘めようと
思うならば、必ずその人に衣食の道を与えるべきであり、道を学ぶ
志のある者は誰彼の区別なく、これを給養すべきです。国家の為、
人の世の為に尽したいと思う人は多少にかかわらず金穀を喜捨して
この事業に協力して下さい。」と述べ、更に「然らば今生後世相
(こんじょうごしょうあい)共に仏道に駕(が)して天下の衆生(しゅ
じょう)を利済せん」と結んであり、「天長五年(828)十二月十五
日、大僧都空海記す」と書かれてあります。蓋(けだ)し、堂々たる
学校教育論と申せましょう。
この文章は、巻物の体裁で、紙十枚に綴られ、百三十九行にわた
る漢文の名文です。
この原本は、初め鎌倉極楽寺で保管されていましたが、天正年間
に僧政遍(せいへん)がこれを高野山無量光院に納めました。上杉家
はこの無量光院の大檀那(おおだんな)であったことから、後に、上
杉家の所有に帰し、上杉家は明治四年(1871)上杉神社創建に際して
神社に奉納されたものです。
この巻物を納めてある外筥(そとばこ)は、輪羯麿(りんかつま)の
蒔絵筥(まきえばこ)で、鎌倉時代の作といわれ、工芸品としても貴
重なものとなっています。弘法大師五十五才の円熟した学識、高邁
な理想をもって書き綴られた教育論「綜芸種智院式並序」は、奇し
くも文教の伝統に薫る土地、米沢に保存され、今も拝覧する人に、
その其精神を訴えつづけているのです。