「多数派」が「少数派」に合わせること、「少数派」が妥協すること | 思い、伝われ

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これまで9年間にわたり、『よねちゃんのつれづれ便り』というタイトルで思いを綴ってきましたが、この度リニューアル致しました。よろしくお願いいたします。

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個人の思いを尊重することも大事だけれど、周りに合わせる努力をすることのほうがもっと大事な時もあると思う。

そうでなければ、多数派の人たちにかえって我慢を強いたりすることもあるのだと頭の片隅にでもおいておかなければならない時もあると思う。

たとえは悪いかもしれないが、私は生まれてからずっと障害をもっている。


だけど、一般の公立の学校に通い、障害をもたない人たちと同じように一般の企業で働いてもきた。

その中で、障害をもたない級友や同僚に支えてもらうことはあっても、自分は障害があるから仕事や勉強が出来ないとは言わなかった。

自分が望んでそうしているのだし、自分がそれを言うことで、周囲から「甘えている」と思われたくもなく、ましてや、「障害者のくせに」とも言われたくもなく、むしろ、自分がどうすれば出来るようになるか、周りに出来るだけ迷惑をかけないようにするか、自分が「我慢」しさえすればすむことなら、自分を抑えこむことすらいとわなかった。


そうやって大多数である「障害をもたない人」に合わせるべきところは合わせてもきた。


幼い頃から、自分が歩けないのだと自覚してから、自分は少数派なのだと思うようにもなり、障害があるから出来ないこと、あきらめなければならないことがある。その代わり、自分が努力をすれば出来ること、やらなければならないことは自分を追い込んででもやってきた。一歩でも二歩でも障害をもたない人に追いつく、なじむことが「共生」に近づくと考え、障害が進んでも「自分に何が出来るか」を考えてもいる。


障害は自分が生きている間、いやがおうでも、一生背負っていかなければならないことだから。

「障害は個性」、「多様性」、それでごまかせるほど甘い世の中なのかなと思うし、差別や偏見も完全にはなくならないだろう。


この世には「男性」と「女性」しかおらず、「結婚」とは「男性」と「女性」が行うもの-そのごく当たり前のことを「多様性」のひと言でひっくり返そうとしている。そのことに違和感を覚え、かえって、怖くも感じるのだけれど。