山田正弘先生とは新日本文学学校でお会いして、そのあと先生の教室に通いました。
新日本文学学校というのは新日本文学という文学誌を発行している、正直に言えば社会党系の団体です。
今は大阪のほうが残っているようですが、東京は確かなくなりました。
で、山田先生は小説というか、シナリオというかの先生をしていました。
教室は基本的に生徒の合評と先生の指導というものでした。
まず課題の作品を学校のみなにコピーして送り、東中野の学校で合評。
これがほとんどの場合テッテ的にやられるんです。
そこで山田先生もびしっと鋭い洞察で指導していました。
たとえばちょっとよさげに描いている生徒には、私自身を含めてみな欠点を示しにくいでいると、「これはフェイクだ。一見きらきらしているが、その中には何もない」と鋭く。
ほかにも、表現がくどい生徒には「英訳してごらん。そうすれば分かるはず。これじゃ主格もごちゃごちゃでただひたすら読みにくい」と指導。
私も容赦なくやられました。
終わった後はいつもの居酒屋で異常に安いビールとご飯を食べる。
で、新宿駅で解散。
そして、毎年千葉の鋸南町保田の宿で合宿していました。
とはいえ小説の話なんかほとんどなし。
修学旅行の夜が何日か続くような楽しい集まり。
夜はバーベキュー。朝は近所の道の駅の喫茶でモーニング。
で、山田先生のスタンスは、ほんと、お年なのに若く、鋭く、やさしく、そして本当にオルタナティブというのはこうなんだなと思うような態度で、社会党関係のイデオロギーのものには「北鮮の肩を持つんじゃない!」と叱責するほど。どっちも分かっていて、どっちもろくでもないという知見がありました。
どこまで本当か分からないことまでおっしゃって、私自身もあっさりかつがれたりしました。
私が小説のことでもめたとき、先生は「シナリオに転向しないか?」と誘ってくださいました。
私自身は失意のどん底すぎたのでお答えできなかったのは今となっては先生に申しわけなかったところです。
そんな先生から、電話がかかってきたことがありました。
それは、先生が手術をするために入院なさったときでした。
私はそのとき、小倉に転居していました。
あまりの声の弱々しさに、私はうろたえました。
そこで実家に電話をしたのです。
実家母は、いろいろなつてで、エゾウコギだのなんだのの、とにかく良さそうなものを私に送り、私は先生に転送しました。
そしてもう一度お会いしたとき、先生は血色もよく、また声もいつもの通りの元気さでした。
漢方に変えたよ、もう大丈夫と先生はおっしゃって、逆に私を心配してくださいました。
それからしばらくたって、先生は雑誌インタビューを受けて、すばらしい表情でウルトラマンの秘話をお話になられました。
そのあと先生は生を全うして旅立たれました。
お葬式にはTVで見かけるかたが幾人もいらっしゃいました。
思い出すと、あのころは、先生の指導を受けながら、ただ夢に向かって進めていた、幸せな時代だったのだと思います。
今、多くの夢が叶いました。
結局、私のやっていることはどうということのない、男として、やや甲斐性に不足するものの、多くの男の人がやっている、ふつうのことなんだなと思います。
先生や先輩を失いました。
ちょっと早かったけれど、でもそれはそれで、私にもっと自覚と自立を促すものなのでしょう。
先生からいただいた宿題をやるにはまだ力不足ですが、私のこれまでは、多くの人に支えられ、学ぶ楽しいモノだったのだなと思います。