2006年9月発行の新潮文庫。
200ページに満たない薄い本だが、内容的には相当に豊饒で、文学の香気が溢れている。ストーリーはこれといって無いに等しいのだが、おそらくは著者と等身大であると思われる「私」が王子駅周辺で接する人々との交流に何とも言えぬ温かみが醸し出されていて、節度を保った人間関係でありながら、下町人情らしきものがほのかに立ち上っているのだ。同時に、「私」の思考回路が自在に開閉し、ときどき寄り道をするように文芸評論や競走馬の回想などが語られるのも、不自然さが少しもなくて、むしろ「私」という人物の関心事が素直に表現され、洞察力や観察眼が誇張されることなく読者に伝わる仕組みとなっていて、しかもそれらの多くは共感を誘うので、しっとりとした情感に満ちた巧みな文章に身を任せていることが、やがて快適になってくるのである。
「私」が王子駅周辺を回遊して接する主な人は、昇り竜の正吉さん、居酒屋「かおり」の女将さん、、古書を扱う「筧書房」の筧さん、「私」が借りているアパートの大家さんで旋盤工場を営む米倉さんと、その娘で中学生の咲ちゃん、などである。正吉さんは背に立派な彫物をした印章彫りの職人で、「私」は銭湯で顔を合わせるし、ともに「かおり」の常連でもある。ところで、居酒屋「かおり」は、かつて桜花賞を制したタカエノカオリという競走馬から一部を借用して名づけたということだ。そして、筧さんには、「私」が持っているテンポイントという悲運の名馬の遺影が商品になるかも知れないと教えられる。というわけで、この作品には懐かしい競走馬の回想へと入り込むシーンが時々挿入されていて、それらは自分にも思い出の馬たちであるし、「私」は笠松競馬場や中京競馬場で競馬を覚えたという告白まで副えられて、地元の人間としてはうれしくなってしまうのである。
ストーリーが重要視されているわけではないので、正吉さんが印鑑を届けに行ったきり戻ってこず、行方不明状態となっても、そのままである。後半は咲ちゃんとの交流が中心のようだ。米倉さんは奥さんを亡くしていて、咲ちゃんが料理を作る。そして、「私」は家賃をまけてもらう代わりに咲ちゃんの家庭教師を不定期ながら担当し、その際に咲ちゃんの手料理をご馳走になるというわけだ。彼女の活発な中学生ぶりと「私」との掛け合いもなかなか面白い。
そして、作中で「私」が読む本について、それは瀧井孝作や島村利正という今日ではマイナーな読書傾向ではないかと思うのだけれど、突然に長い引用を含む評論が始まるのである。いったいに、「私」は時間給講師や翻訳で生計を立てていて、比較的自由な時間が持て、筧さんの店で買うだけではなく、図書館などでも本を読む習慣があるのだ。たださえストーリーらしきものはないところへ、読者はそこで立ち止まって、「私」が読んでいる本につきあうことになるのだが、それが決して不愉快でないのは前述の通りである。
こうして感想を纏めようとしても要領を得ないのがもどかしい。思うに、この作品は、修飾の多い長い文章を駆使したその表現で保たれているのだ。つまり、文章そのものの魅力がこの作品を支えていて、だから、実際にその文章に接してみないことには、その良さはわからないのではないだろうか?
日本語の豊かな響きを満喫できただけでも、この作品に出会えて幸せであった。
2008年6月3日 読了
