松本清張 『危険な斜面』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 文春文庫の新装版。光文社のカッパノベルズから刊行されたのが1962年6月、当初の文春文庫編入は1970年3月という作品で、短編推理小説が6編収録されている。先日松本清張の『小説日本芸譚』を読み、それはそれで読み応えもあったのだが、文句なしに楽しめる作品に触れたくなって、手にした。

 ところが、6編のうち、『二階』は新潮文庫の短編集『黒地の絵』に、そして『巻頭句の女』と『拐帯行』は同『駅路』にそれぞれ収録されていた作品で、つい最近読んだばかりであった。タイトルだけでは気付かず、読み始めて「あれ?」と思うのも愚かな話であるし、誰を責めるより自分の不分明を恥じるよりないのだけれど、ちょっと損をしたような気分であった。

 表題作の『危険な斜面』が面白い。西島電機㈱の調査課長・秋庭文作が、いまは同社会長の妾になっている野関敏江と10年ぶりに再会し、秘かによりを戻して肉体関係を結ぶようになり、彼女を通して会社での立場も好転してゆくのだが、利江の熱が上がりすぎてしまい、危険を感じて殺害してしまう。ところで、利江には以前から沼田仁一という若い恋人がいて、秋庭との仲が深まるにつれて疎遠になっていたのだが、遠く山口県で利江の死体が発見されると、彼に容疑がかけられてしまう。沼田は懸命に調査・推理し、ついには秋庭を犯人と特定するに至って、彼を罠にかけ、刑事に引き渡すのだ。松本清張は素人を探偵役に据えることが得意な作家だと思うが、最後の数行が鮮やかに決まっていて、気持の良い幕切れとなっている。

 『投影』は大手新聞社を退職して瀬戸内海沿いのS市へ都落ちし、小さな新聞社に勤める記者・太一が探偵役であり、彼は地元警察も事故としたS市役所土木課長の死の真相をつきとめるのである。そこには大物市会議員の暗躍と、彼に擦り寄って立身をはかる職員の姿もあった。太一は正義感の強い社長の激励を受け、目立たないが有能な同僚の新六と協力して、ついに犯罪を立証する。その間に、都落ちした太一の鬱屈なども語られ、最後は元の社の系列会社に再就職が決まって東京へ戻るのだが、これもスッキリと後味のよい作品であった。

 『巻頭句の女』は、老人ホームの癌患者で余命いくばくもない老女を引き取って、彼女の死を利用して妻の殺害を図った男を、老女が俳句雑誌に投稿していた縁から、句誌の主宰者が推理を働かせて犯行を暴くという物語だ。最初は善人の顔をして登場した人物が実は凶行犯であったという意外性が見事な作品で、前回読んだときも感心したことを覚えている。

 『二階』と『拐帯行』は、推理小説というよりは、人間の心の深遠を覗いたような気持にさせる作品である。松本清張は単に面白いだけではなく、社会の闇や、人の心の闇にも光を当てるのだから、読んでいて飽きることがないはずである。

 損をした気分と言いつつ、全編を読んで満足しているのだから、良しとしましょう。

  2008年6月1日  読了