山本周五郎 『小説 日本婦道記』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 新潮文庫の「おとなの時間」シリーズの一冊。もちろん改版により文字拡大が施され、読みやすくなっている。

 驚いたのは、帯のコピーで、この作品が直木賞に選ばれたものの、山本周五郎が固辞したことを、大きく周知していることだ。確かに直木賞の長い歴史のなかで唯一の例であり、事件と言ってもいいとは思うが、1943年のできごとを2008年のいま宣伝惹起に使う必要があったのだろうか。

 この作品は、戦中から戦後に至るまで書き継がれた周五郎初期の代表作だということである。全30話ほどが発表され、この新潮文庫版には著者自選の11話が収録されて、「これをもって『定本』とする」と称し、題名に「小説」を付けることを明確にしたという。そう言えば、新潮社版の「山本周五郎全集」で読んだときはもう少しボリュームがあったと記憶するので、調べてみたところ、17話が収録されていた。いっそのこと、どこかで完全版が出ればいいのにと思うが、偏屈で依怙地な故人の意思が尊重されて今日に至っているのかも知れない。

 タイトルが修身か道徳の教本のようなイメージで誤解を受けやすいのではないかと危惧するけれど、内容は周五郎の小説世界が全開で広がっていて、凛とした女性が登場し爽やかさを感じたり、親子・夫婦・兄弟姉妹・嫁と舅姑の情愛に涙を誘われたり、一筋の道を貫く女性の逞しさに感動を覚えたり、貧しいけれど幸せでひたむきな人生があることにハッと気付いたりの連続である。江戸時代の武家に属する女性を描いた連作であり、当時は社会を動かすのは男性の仕事であって、女性は家政の切り盛りが主たる役割と考えられていたわけだから、女性が社会進出を果たした今日とは相当に状況が異なるけれど、それでも、自分が果たすべきことを自覚して前向きに生きるという意味では、極めて今日的なテーマでもあると思う。

 個人的には、『箭竹』の、自裁した夫の遺志を想い懸命に息子を育てて、ようやく主君に認められるまでのみよの辛苦や、『不断草』の、離縁されても盲目の姑の世話を続け、やがて離縁には深い事情があったことがわかるまでの菊枝の身の処し方、『糸車』の、いまは出世して裕福になった産みの親より、落ちぶれて貧しくても育ての親の父や弟と暮らしたいと願うお高の真直ぐな気持など、大いに泣かされた作品が好きだ。年齢とともに涙脆くなってきて、人前で読むのは憚られるけれど、涙を流した後の清涼感がとても清々しいのである。

 この中の『藪の蔭』は、他人の罪を被って平然としている夫を支える妻の物語だが、高校の教科書に採用されたことがあるということだ。現代の教科書の実情は知らないが、山本周五郎の作品が子供たちの目に触れる機会があることは、素晴らしいことだと思う。

  2008年2月21日  読了