山本周五郎 『さぶ』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 1965年12月発行の新潮文庫。ときどき山本周五郎を読み返したくなって、今回は『さぶ』を選んだ。自分の記憶に間違いがなければ、再読ならぬ三読だと思うのだが。(わが家には新潮社版「山本周五郎全集」全30巻が揃っていて、今回、自分はその第16巻で読みましたが、タイトル及び表紙写真はポピュラーな新潮文庫版としています。)

 『さぶ』を一言で表すなら、さぶ(三郎)の友人である栄二の再生物語である。主人公はさぶであるはずなのに、語られるボリュームは圧倒的に栄二が多い。さぶが不器用で鈍間であるのに対して、栄二は目端が効いて機敏である。読み進めるにつれて、何故この作品の題名が『さぶ』なのかと、疑問さえ芽生えてきそうである。と言って、全編を通して、さぶの存在は決して軽いものではない。栄二にとって、さぶは必要不可欠なのだから。

 栄二とさぶは、表具と経師を扱う芳古堂の子飼いの職人である。修業は既に10年で、栄二は腕利きとして一通りの仕事ができるまでになったが、さぶはいまだに糊作りから抜け出せないでいる。その代わり、糊作りに関してなら、さぶは一級の職人である。

 ことは、芳古堂の大得意である両替商・綿文の客座敷の襖の張り替え作業の間に起こった。綿文の旦那が大切にしていた古金襴の切の一枚がなくなり、あろうことか、栄二の道具袋から発見されたのである。栄二は綿文への出入りを禁じられ、芳古堂から3年前に独立した和助の店へ追いやられてしまう。

 身に覚えのない栄二は荒れて、酔った勢いで綿文に乗り込み、町内の火消しの頭に叩きのめされ、番屋へと連れ込まれてしまう。栄二はそこでも暴れ、以後は無口で通し、奉行所での吟味を経て、石川島の人足寄場へと送られることになった。

 物語の中心部分は、この石川島でのできごとだ。綿文や火消しの頭への復讐心に燃え、依怙地に固まっていた栄二の心が、寄場に集まった社会からこぼれ落ちた人々と接し、ときに助けたり助けられたりして、次第に解きほぐされてゆく。さぶも栄二の所在を必死に捜し求め、やがて石川島へ面会にやってくる。栄二と将来を誓い合った綿文の元女中・おすえ、さぶと二人でよく通った居酒屋「すみよし」のおのぶも、栄二を支えようとする。先にこの作品が栄二の再生物語と言ったのはここで、彼は足掛け3年を石川島で過ごすのだが、その間に生の経験として多くのことを学ぶのである。

 島を出ることを許された栄二は、おすえと所帯を持ち、さぶを交えた3人で表具の店を持つ。得意先があるわけもなく、苦しい生活が続くが、やがておのぶの紹介で江の島での大きな仕事を得ることができ、希望に満ちた終幕となっている。最後の最後で、古金襴の切の秘密も明かされて、読者はそこでも思わず涙ぐむことになるだろう。

 実際、加齢とともに涙もろくもなっているようで、何でもなさそうな会話でも、涙が滲んでくる。これがまた実に心地よいのである。誰にでも、何度読んでも必ず泣けるという本があると思うが、自分にはこの『さぶ』がその例だ。

 10年後もまだ元気でいるなら、きっとまた読み直すだろうなと思う。

  2010年10月7日  読了