山本周五郎 『ちいさこべ』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 新潮文庫の改版。『花筵』『ちくしょう谷』の中編と、『ちいさこべ』『へちまの木』の短編、計4編が収録された作品集である。

 なかでも『花筵』が、ボリューム的にも内容的にも最も読み応えがあった。大垣藩戸田家の内紛を背景に物語が進行し、揖斐川などわが地元の馴染みの風景が描かれることも、親しみやすかった一因なのかも知れない。

 藩の重鎮の娘として育ったお市は、陸田信蔵に嫁ぐが、信蔵は藩の内紛に巻き込まれ、お市に大切な書類を預けたまま、消息がわからなくなってしまう。お市は姑と娘を伴って郊外に隠れ住み、洪水時には姑を助けて娘を失ってしまうという不幸にも遭遇するが、やがて花筵の生産に活路を見出し、工夫を注ぐようになる。お市の花筵は藩主に献上され、お目見えの機会を与えられたとき、お市は夫が残した書類を藩主に示す。それが決め手となって、藩を二分したお家騒動は終息を迎え、夫の信蔵も無事であったことがわかる。お市が信蔵と再会する瞬間は実に感動的だ。苦労にまみれて、しかしその苦労の甲斐があって再びの平安に至る女性を描くのは、山本周五郎の独壇場である。

 表題作の『ちいさこべ』も、小品ではあるけれど、健気に生きることの尊さを力強く訴えてくる作品である。火事で家を焼かれ両親を失った大工の茂次は、人を頼らず、自力で再建を果たそうと意地を通している。賄いを手伝うことになった幼馴染みのおりつだが、彼女は火事で焼け出された子供たちの世話もする。最初はそれに異を唱える茂次も、次第に子供たちを守ろうとするようになるのだ。最後には茂次はおりつとの結婚を決意するのだが、この作品には人の優しさや温かみが溢れていて、爽やかな感動に浸ることができた。子供たちの表情が生きいきと描かれているのも楽しい。

 対して、『ちくしょう谷』は周五郎作品らしからぬ不透明な作品のように思った。社会から隔絶された非人部落に赴任した朝田隼人は、その解放に尽力する一方で、兄を不審な死に追いやった西沢半四郎と対峙することになる。普通なら、苦難の末に兄の死の真実を探索する物語になると思うのだが、隼人は全てを飲み込んで、自分にも危害を加えてきた半四郎であるのに、それを許そうとするのだ。力を注いだ作品であることが窺え、どうやら許すということがテーマのようだが、よくわからない作品になってしまったようである。

 『へちまの木』は著者最晩年の作品のようだが、これも周五郎作品としては凡庸な印象を受けた、旗本の三男坊の房二郎が、武家を捨てるつもりで家を飛び出し、怪しげな瓦版屋で記者の真似事をするものの、やはり町人にはなりきれないと悟って、武家に戻ってゆくという話である。へちまは木になれないということから名付けられたタイトルだけが一人歩きしたような感じなのである。

 こうして読んでみると、作家という職業はつくづく難しいものだと思う。あの山本周五郎にして、経験を積んだ晩年の作品が、必ずしも初期の作品を超えないのである。作家も人間であれば、作品に多少の凹凸があるのは、ある意味当然だとも言えるのだろうけれど。

  2007年12月2日  読了