松本清張 『歪んだ複写 税務署殺人事件』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 新潮文庫の改版。新潮文庫は本気で過去の作品の文字拡大に取組んでいるようで、自分のような還暦過ぎの読書好きにはとてもありがたいことである。ロングセラーを多く抱える老舗文庫が、逸早く時代に対応していることに、感動すら覚える。

 サブタイトルの通り、税務署を舞台とした殺人事件を描いたこの作品、事件の背景を追い真犯人を焙り出してゆく過程の面白さとともに、税務署職員の不正腐敗を徹底的に暴き、しかも上級職ほど巨悪に染まっていることを完膚なきまでに描いていて、いかにも松本清張らしい痛快な物語である。1959年から60年にかけての週刊誌連載であるから、ほぼ半世紀も前の発表であるのに、つい最近も厚労省の組織ぐるみの腐敗ぶりがニュースで流れたように、公務員の不正は一向に改善されておらず、むしろ組織ぐるみで巧妙に隠蔽する傾向であって、そのため、松本清張の指摘は常に新鮮な響きを伴っているのである。

 冒頭、バーの窓から料亭を窺っている男が描かれ、次に一転して、その男が武蔵野の地中から死体となって発見される。身許がわからないでいるところに、新聞社に駆け込みがあり、記者の田原典太は事件追求に熱意を燃やす。死者は元税務署員で、脱税企業との癒着の責任を取らされて辞職していた。税務署を調べる必要から、典太はそこに詳しい横井貞章に調査を依頼するが、その横井も殺害されてしまう。横井は殺される前に、電話で「階段」と「古物商」のヒントを残したが、典太にはその意味が掴めない。典太は税務署の崎山課長を怪しいと睨んで身辺を探るが、今度はその崎山が愛人の堀越みや子の部屋の押入れで死体となって発見されるのだ。

 三つの殺人事件とその現場を詳細に検討し、典太はみや子のアパートの隣室にいた大学生夫婦に疑問を抱き、ついには思いがけない犯人に辿り着くのだが、そこへ来て、なるほど「階段」と「古物商」の言葉が納得できるのである。このあたり、実に心憎い展開なのである。

 最後の心残りといえば、崎山殺しの容疑者と目されていたみや子は、実は犯人の手で精神病棟に収容されていたことがわかるのだが、事件が解決しても、無事に保護されたかどうかの言及がなかったことで、些細なことだがちょっと気がかりである。

 ここでは、探偵役の田原典太はごく一般の新聞記者であり、試行錯誤を繰返しながら、次第に犯人に肉薄してゆく。超能力を備えたスーパーな探偵ではなく、論理に飛躍もないので、リアリティに溢れているのだ。そこに松本清張の権力に立ち向かおうとする反骨精神が裏打ちされて、この作品を大きなものにしている。まさに、胸のすく作品と呼ぶに相応しい。

 まだまだ清張作品に未読のものは多い。もっともっと読みたいと思う。

  2006年11月18日 読了