舞うの舞は、舞台や舞い踊る
舞いは、自由な動きによるもの
舞い踊る度に、喜びを生み、そして舞い踊る度に肥やしになるものを見つけたり、踊ること自体も体を作る肥やしになるということになります
何度も自由な動きを繰り返し、喜びと肥やしになっていくので、「フ」の始念を繰り返すのが「ブ」の始念のようです
舞台も、自由に演技を行うところで、喜びと、練習を繰り返すところなので、「ブ」の始念のままになりますね
撫はなでると読みますが、撫でるのも、自由な動きで繰り返す動きですね
てへんなので、手で撫でるということ・・・別に書くことではないかも・・・
蕪は食べ物のかぶ
どんな意味が蕪にあるのでしょうか・・・
これはパスします
憮は憮然(ぶぜん)の憮
憮の意味は、がっかりする、失望する、驚きあきれる
この言葉は、一度動いたものを見て、次にどうするのか
次に行うことは自由なのですが、がっかりすることに動いたということのようです
憮然は、「忄」立心偏(りっしんべん)が付いていますが、一度自由に動いたものを見て、心に立ち上がった思いを、自由に判断したということになると思いますが、これはひとつの判断で、がっかりした後も、自由に和へ向かう動きを生むことが出来るので、自由に動くことを繰り返すという始念に範囲だと思います
無をブと読むのは、一度自由に動いたのを見て、次にどうするのか
その判断は自由でありますが、無くすのも自由な動きなので、無くすというのは、一度見て、次に無くすという自由な動きによるものだということになります
悔はくいる、くやむ、くやしい、
立身偏に毎回の毎
心に立つものが毎回悔しいということになります
この悔をカイとも読むことを知ったのですが、カイは彼の意のこと
神さまである、天の父さんの意であるということだと思います
言は神と言いますが、神さまの心が、そのまま言になっている
このように考えています
言葉の意味を知るということは、神さまの心を知ることになります
甲斐性もカイと読みますが、甲斐の甲は、甲乙の甲で、一番はじめと言う意味です
彼が始めという意味です
甲斐の斐は彼の意ということでもありますが、非の文が意ということなら、言葉が、彼の意ということで、彼を力と読めば、力は言葉ということにもなります
言葉が力
言葉に想いを込めていくことで、人にも自分にも力を与えていきます
甲斐性というのも、想いを言葉にして、相手へ力強さを出すことなので、言葉が力になっていくと思います
武は武士ですが、もののふのモノとも読みます
モノをカタカムナの始念で解くと、育った魂という意味があると考えています
この考えと、「フ」を繰り返すという考えが、武士の武の意味になると思います
「フ」を繰り返すというのは、自由に和を求める動きを繰り返す、または、
不を繰り返すという意味もあると思います
勝負の負は傾きを表す言葉ですが、勝負をするのもしないのも自由な動きで、そして、勝ち負けを決めるのも、自由な判断によるものだということのようですね
部は、一度自由に動いて、その後に部署(もちば)に分かれるということのようですが、分かれるときも、自由に分けられ、そして、分けられた所に行くのも自由な動きになります
一部に分けるのも、自由な動きによるもの
部分的にするというのも、繰り返される自由な動きによるものではないでしょうか
歩(あゆみ)
歩みも繰り返される自由な動きですね
和へ歩めば、喜びにつながり、歩むことで、肥やしになることも多く知ることができるということだと思います
葡は葡萄のブですが、エとも読みます
「エ」の始念は重なるですが、葡萄の実も重なるものです
葡萄の木は、どこにも重ならない
枝も重ならない
葡萄の実だけが重なっています
それは、木が重なると、みんな同じになるからですよ
そして、みんなが同じ考えになってしまう
それが良くないから、木は重ならないのです
イエス・キリストは、私は葡萄の木であると言ったと思いますが、葡萄の木のように、一人の人の気持ちは、多方向に広がり続けるもの
しかし、実は重なるものというのは、カタカムナの「ミ」の始念である、弥栄の喜びは、身を持った人、身にした人、そして、すべての意識のある方々
天の父さんや、母さん、多くの天使さんたち、そして霊人の方達、そして人
すべての方々の喜びが重なる
良い葡萄の木とは、喜びを、重ねることが出来る方のこと
これがイエス・キリストの隠された使命でしょうね
神さまがイエス・キリストに望んだのは、このようなことのようです