戦国時代、関東一円に領国を広げた北条氏の拠点で

難攻不落と謳われた小田原城。

 

天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が

小田原城を攻略する際に築城した石垣山一夜城。

 

先日、ふたつの城を訪ねて日帰りで小田原に行って来ました。

 

JR小田原駅の東西連絡通路に提げられている小田原提灯。

楕円の写真は小田原駅西口にある北条早雲公像。

 

戦国期は全国で勢力争いが勃発していた時代ではありますが

関東は混沌とした、まさに激戦地でした。

(鎌倉公方や関東管領を巡る争いもあるし)

 

北条氏は、その中で勢力を伸ばし関東支配を果たします。

 

しかし周辺地域の勢力も強烈な顔ぶれの上、頻繁に関東に絡んでくる。

(越後の上杉、甲斐の武田、駿河の今川など)

 

小田原城が堅牢堅固の城として名を馳せたのは

上杉謙信の猛攻を凌ぎ、続いて武田信玄をも退けたからだそうです。

 

そりゃあ「戦国最強の城」と言われますわ・・・。

 

 

さて、北条氏の小田原城といえば総構が有名です。

城のみならず城下町全体を

巨大な堀と土塁でぐるっと囲んで要塞化させたという、あれです。

 

難攻不落だったのは総構の要塞ゆえ・・・と思ってしまいますが

総構は秀吉との合戦(小田原合戦)に備えて築いたものだそうです。

 

ということは、総構がない段階でも鉄壁の防御力だったのです。

 

なのに、さらに入念に総構を完成させた。

この周到さに北条氏の強さが見える気がします。

秀吉方が大軍で攻めてくるということもあるでしょうけれど

対抗策を立案し、着実に実行するところが流石というか。

(実際に小田原城は武力で攻め落とされてはいないわけで)

 

 

ところで、敵からの攻撃があった際、城に籠って防衛する

いわゆる籠城戦は、それ自体は勝敗を分ける決定打とはなりません。

 

援軍が来ることを前提とした時間稼ぎであって

それまで持ちこたえることを目的としているからです。

(敵が諦めて撤退するケースもあるでしょうけれど)

 

城下町をも含んだ巨大な要塞は、中に籠ったままでも

食料生産(農作をする)や武具の調達(職人や商人がいる)が出来るので

持久戦になっても長く耐えられるんですね。

 

そして北条氏は、小田原城を中心にして

領内各所に網の目のように多くの支城を設けていました。

 

各支城には位があって、人員の配置換えがあったり

城ごとに役割を担っていたり(兵站担当だとか、戦闘に特化とか)

ネットワークが構築されており

 

どこかが敵に攻められたときには

相互に支援できる体制が整えられていたのです。

 

北条氏がこうした仕組みを確立していたからこそ

小田原城の籠城は有効だったし、防御力も活きたんですね。

 

 

そして、天正18年(1590年)。

防衛戦のシステムを築き上げてきた北条氏に

圧倒的な軍事力を従え、人心掌握にも長けた秀吉が迫るのです。