平野川は、河内平野を北西に流れる川で

時代や流域によって、了意川・竜華川・百済川等の名前で呼ばれていました。

 

かつては旧大和川から分岐して千間川(今川)、猫間川等々と合流

屈曲をくりかえしながら低湿地を蛇行し、寝屋川に注いでいたそうです。 

 

大坂城の東側へ回り込むので、外堀としても機能していました。

 

江戸の頃の平野川では「柏原舟」とよばれる舟が

京橋と柏原を行き来(物資運搬船)していたようですが

 

これは 元和6年(1620年)と寛永10年(1633年)に大洪水が起きて

流域の柏原村が大きな被害を受けたため

 

当時の代官、末吉孫左衛門長方が、柏原村周辺の復興と開発のため

平野川筋の水路を開き、船の往来を自由にし

自らも船を航行させて多額の運上銀を支払ったのだそうです。

長方の父、末吉孫左衛門吉安は豪商で、大坂の陣のとき徳川につき

本陣普請等に功を立てたので、河内国の志紀と河内二郡の代官となりました。

長方は代官職を継承し、父と同じく朱印船貿易も行っていたようです。

 

 

江戸期に大和川の付け替え工事がなされてから

平野川の水量は減ったものの、水禍は収まらず

 

近代になって本格的な治水工事が始まります。

 

数度の工事を経て、蛇行する川筋は直線的な流路となり

平野川分水路(城東運河)も開削されたのだそうです。

 

この分水路は、平野川より東側を北流して寝屋川に合流します。

 

平野川分水路と第二寝屋川の合流点(北から見る)。

水路が十字に交差しています。

 

この合流点にある平野川分水路排水機場は

 

増水したとき、水門を閉ざして第二寝屋川の水位の影響を遮断しつつ

ポンプによって強制的に排水し平野川分水路の水位を低下させるそうです。

 

水門。

これを閉じると、第二寝屋川からの逆流が防げる仕組み。

 

北(第二寝屋川)側から見た水門。

 

建物の下の空洞は、ポンプの吐き出し口なのだそうです。

 

ポンプで平野川分水路の水を吸い取ると、ゴミも一緒についてきてしまうので

増水時には色々なものが流されてくるおそれがありますもんね・・・

水門より南(平野川分水路の上流側)にある除塵機。

これでゴミを取り除くのだそうです。