大塩平八郎の乱は、半日で鎮圧されました。

 

事前に計画が奉行所サイドへ漏れていたことに加え

 

戦闘状態になれば

太平の世が続いていたとはいえ、武士の集団であるご公儀の軍勢と

農民や町民らの集まりであった大塩勢とでは互角であろうはずもなく。

 

大塩平八郎と養子の格之助は天満橋の八軒家船着場から逃走します。

 

蜂起にあたり幕府へ送った建議書によって

中央が動いてくれることに望みを託したということですが

 

これも功を奏することはありませんでした。

(途中で盗難に遭う等しつつ最終的に幕府に届くも、握りつぶされた模様)

 

大塩平八郎は、国家転覆等を企てているのではないと明言しており

腐敗した役人の排除と困窮民の救済を訴えているのですが

 

武装蜂起をしたことで

幕府はただ反逆者として断罪しているんですよね。

 

 

大塩親子は大坂市中の靭油掛町に潜伏していましたが

ご公儀に突き止められるや、爆薬を抱えて自決したそうです。

 

 

大塩平八郎終焉の地碑と解説板。

靭公園の少し南(大阪市西区靭本町)にあります。

 

大塩親子が潜伏していた美吉屋五郎兵衛宅は

この碑のある場所から背割水道を隔てた北付近にあったそうです。

 

 

大塩平八郎は謀反人となりました。

 

 

しかし、大塩の発行した施行札私財の600両を困窮者に分け与える旨の札)

檄文が流布していたため、市井の人は彼の蜂起の理由を知っていた。

 

元与力の大塩平八郎が、幕府の直轄地で蜂起したことや

人々の手から手へと筆写されて広まった檄文は

遠く離れた土地でも、幕府に反抗心を持つ人々に刺激を与えました。

 

大塩生存説なるものが囁かれ、大塩門弟を名乗る者が決起したり

「世直し」のヒーローの芝居が人気になったり。

 

それは、幕府の権威が低下し

やがて幕末へと向かう歴史の流れの、分水嶺であったのでしょう。

 

大塩平八郎の墓を造ることは許されなかったそうですが

明治になって、天満東寺町の成正寺に建立されました。

 

成正寺の東、天神橋筋に面して建つ遊興寺は

大塩平八郎の実家の菩提寺なのだそうです。