米沢市の郊外、JR東日本 ロゴ関根駅の近くにある普門院と羽黒神社。

その一帯は敬師の里と呼ばれています。

 

米沢藩9代藩主上杉鷹山は、藩の再建に取り組みました。

 

藩の財政がかなり逼迫していたため、財政策が注目されがちですが

 

その改革は、財政策と同時に学問教育や人材育成も重視するもので

藩校を再興させて藩士に学問をさせ

領民に対しても教育に力を注いだようです。

 

明和8年(1771年)藩主鷹山は、細井平洲を米沢に招きます。

平洲先生は鷹山公が十四の年から教えを受けた師です。

 

恩師平洲の米沢滞在は二度(講義等をしたようですね)。

藩校は平洲によって興譲館と名付けられました。

 

そして三度目に平洲先生が米沢に招かれたのは寛政8年(1796年)。

鷹山公四十五歳。既に家督を譲り、隠居なさっています。

平洲先生は六十九歳。

 

鷹山公が政の成果を恩師に報告できる、おそらく最後の機会です。

 

遠路をお越しになった平洲先生を出迎えるため

鷹山公は城から二里(約8㎞)余り離れた関根の地までいらして

御自ら恩師を迎え、鄭重に労われたのでした。

 

 

いかに恩師と言えど、身分制のあった時代のことですから

 

先代藩主(隠居していますが「殿様」です)が自ら迎えに出るなど

当時の常識では考えられないことです。

 

 

お出迎えになった場所が羽黒神社で

お二方が休憩をとられて、語らわれたのが普門院。

 

周辺は上杉治憲敬師郊迎跡として国の史跡となっています。

 

このときの再会の様子を、平洲先生は

九州久留米の樺島石梁に宛てた書簡に認められました。

 

その書簡の一部が石碑に刻まれています。

普門院の境内にある「一字一涙の碑」。

 

涙の再会だったようで

鷹山公の、師に対する篤い敬愛の念が伝わって来ます。

 

一字一涙というのは、書簡に添えられた神保蘭室の跋文

「之を読めば一字一涙、人をして慨焉として往日を憶わしむ」

からとったものだそうです。