中津藩で蘭学が盛んだった背景には藩主奥平家の保護がありました。
(長崎に近いというお土地柄もあったのかも知れませんが)

三代目の奥平昌鹿公は藩医の前野良沢を長崎に派遣。

良沢は長崎で吉雄幸左衛門(耕牛)や楢林栄左衛門らにオランダ語を学び
「ターヘルアナトミア」を購入して戻ります(帰藩後翻訳に着手)。

五代目の奥平昌高公は自らもオランダ語を学び
シーボルトとも親交がありました。

その治世下では辞書も出版されています。
文化7年(1810年)には日本で最初の和蘭辞書「蘭語訳撰」(編者は神谷源内)
文政5年(1822年)蘭和辞書の「中津バスタード辞書」(編者は大江春塘)

藩医の村上玄水が九州で初となる解剖と行ったのも昌高公の時代です。

そんな中津藩で代々藩医を務めてきた、大江医家。


立派なお座敷で、鎧櫃などもありました。


「醫 不仁之術 欲務為仁(医は仁ならざるの術 務めて仁をなさんと欲す)」

これは大江家五代目の雲澤が
明治時代になって中津医学校の校長になったときに定めた「医訓四則」の一ですが

もしかすると、この考えは代々大江家に伝わっていたのかも知れません。

医は仁術と世間では言われますが、そうではないと。

医術そのものが仁(善)なのではなく、使い方によっては悪にもなりうる
だからこそ、仁(善)であるように携わる者が努力しなくてはならない(意訳です)

御殿医という家柄に胡坐をかいてきたのではないことがよく判る言葉です。


それから、最後に史料館のオジサマが熱く語ってくれた人物は

田原淳(すなお)博士(撮影や掲載については許可を得ています)

心臓の中の房室結節(田原結節と呼ばれる)を発見し
「ペースメーカーの父」と呼ばれ、心臓学の基礎を築いたと云われる
大分県出身の医者であり病理学者です。

博士は国東半島の安岐村の生まれ。
中津に住む伯父で医者の田原春塘の養子になり
東大医学部を卒業後、ドイツ留学中に田原結節を発見します。

帰国後は、九州大学医学部の教授となりました。

博士の発見が心電図法の確立やペースメーカーの開発の基礎となっているそうで
 「博士は野口英世博士と同じくらい評価されてもいい人なんです」
と熱く語るオジサマの言葉がとても印象的で

田原博士のお名前、しっかりと憶えておこうと思いました。