「私がヒナと最後に関わったのは、ヒナが学校に来なくなる前の日。だから、タシマがヒナに神社に連れて行かれたのと同じ日だよね。」
アサギは、グラスの中のウーロン茶を半分ほど飲んでから、話し出した。
私は、夕方、ヒナに会った。
別に約束をしていたわけではなく、偶然、学校のグラウンドで教室の窓を見上げているヒナに行きあったのだ。
私は、教室に忘れ物をして、取りに行くところだった。夕暮れ時、薄闇に沈み始めたグラウンドで、ヒナは1人、四年生教室の窓を見つめて佇んでいた。
その背中がとても寂しそうで、声をかけずにはいられなかった。
「何してるの?」
突然声をかけられ、ヒナの肩はびくりと震えた。肩越しにこちらを振り返るヒナは、薄闇の中でもよくわかるほど、顔色が悪かった。その顔が乗っている肩も、何だかとても頼りなく、か細く見えた。
私は、思わず息を呑んだ。放課後明るく挨拶を交わしたヒナと同一人物とは思えないほど、ヒナの様子は変わり果てていた。
ヒナは、私の姿を認めると、薄く笑んだ。その笑みも、とても弱弱しく、何だか消えてしまいそうな。
「ねえ、大丈夫?」
思わず私の口をついて出たのは、そんな言葉だった。
ヒナはゆっくりと頷くと、再び教室の窓へ目をやった。
私は、ヒナの隣まで歩いて行き、同じように教室の窓を見上げてみた。教室の室内は暗く、窓ガラスは暮れ行く空の色を映している。これといって変わった様子はない。私は、何気なく隣にいるヒナの横顔に視線を移した。
ヒナは、切なそうな、懐かしそうな目をして窓を見つめていた。その時、私は思ったのだ。ヒナに会うのは、とても久しぶりなのではないかと。
「ねえ、カナ。伝えたいことがあるんだ。聞いてもらえる?」
不意に、ヒナは私の方を見た。その目がとても真剣で、青白い顔と相まって、とてつもなく怖くなった。私は、思わず答えていた。
「うん。聞くよ。でも、明日ね。明日、神社で待ち合わせしよ。今日はもう遅いから、早く帰ろうよ。」
ヒナは何か言おうと口を開きかけたけれど、唇を震わせただけで、それはすぐに閉じられた。その表情に、何か暗いものが過ったのを、その時の私は幼いながらも感じていた。今思うと、あれは絶望の色だったのだ。
ヒナの話を聞くのが、なぜかとても怖かった。
男女間で話があると言えば、好きだとか、嫌いだとか、そんな話が相場だと思う。でも、その時のヒナの様子は、そんな浮ついた話をするようには見えなかった。だから、きっと何かよくないことだと、私は直感的に感じていた。
だから、先送りにしてしまった。
次の日、ヒナは学校には来なくて、私は約束した午後3時に神社に行ったけれど、そこにもヒナは現れなかった。
私は、話を聞くことで何か重いものを負わされることを恐れたのだ。
きっとヒナを傷つけた。私に勇気がないせいで、ヒナは傷ついたまま、いなくなってしまった。
「いくら何でも、落差がありすぎると思わない?」
ナナセは、僕を見た。
当時は小学生だったから、それほど深く考えていなかったが、確かに、普段のヒナと明るい時のヒナは、まるで別人だった。ヒナの身体に、別の人間の魂が宿っているように。
「多重人格、とか。」
ナナセは得心したといった表情で呟いた。
「じゃあ、さっき窓から顔を出したのは、誰?」
カンノは納得のいかない顔をしている。
「もともと生霊が学校来てたなら、さっきのが幽霊だとしてもおかしくないじゃん。」
カンノが不機嫌そうに唸るのに、アサギが笑んだ。
「変な理屈。」
ここに着いた時の、不安げな表情はすっかり消えている。
「じゃあ、タシマの話を聞いたところで、今度は私が話すね。」
アサギはぐるりとみんなを見回してから、ふとアサギの目の前にあったウーロン茶のペットボトルを手に取った。
「その前に、飲み物。」
それぞれの席に用意されていたグラスを集めると、なみなみと注いでいく。
「それ、飲むの?」
カンノは不安そうにアサギの手元を見つめている。
「よく冷えてる。せっかくだから、飲もうよ。」
アサギはそれぞれにウーロン茶で満たしたグラスを配ってから、グラスを持ち上げた。
「乾杯しない?」
僕たちは、せーの、で「乾杯」と発声し、グラスを掲げてから、お茶を飲んだ。
「僕が知っているのは、それだけだ。ヒナの死因は知らない。ヒナが、アサギと僕に伝えたかったことが何かも知らない。」
あの時、もしアサギとともにヒナの家へ行っていたらどうなっていたんだろうと、10年経った今でも考える。
僕は、行きがかり上アサギを好いていたことを告白しなければならず、話し終わる頃には俯いていた。しかも、醜い嫉妬から、ヒナの言う通りにアサギを連れて行かなかったのだ。僕の狭量さに、みんな呆れているだろう。益々顔をあげたくなくなる。
話し終えて、場に静けさが戻ってから程なくして、誰かが噴き出した。
咄嗟に顔を上げると、アサギが僕を見ながら笑みを浮かべている。
「何だ。ものすごい深刻そうな顔をして話し出すから、どんな悪いことしたのかと思った。」
アサギの言をきっかけに、空気がふっと緩む。
「お前、見た目通り繊細だな。繊細というか、面倒。」
サイキが呆れたように言った。
「そもそも、ヒナは告白するなんて、ひと言も言ってないじゃん。」
カンノが口をとがらせるようにして続ける。
「本当のことを、伝えたかったんでしょ。何かを伝えるイコール告白って、安直。」
確かに。あの時の僕は、普段鼻にもかけない僕を、明るい時のヒナが誘ったことに、ちょっと浮かれていた。だから、ヒナがアサギを連れてきてほしいと言った時、心底落胆していたのだ。
それで、頭に血が昇って冷静さを欠いていたと思う。
「ヒナが伝えたかったことって、何だと思う?」
僕は、こちらを見つめる4人に訊いてみた。
「どうして、僕がアサギを連れて行かなければならなかったと思う?」
アサギは、首を傾げた。
「何か、隠し事があったんじゃないの。」
それまで黙っていたナナセがぶっきらぼうに答えた。
「自分じゃアサギを連れて行けない、俺たちの知らない理由が、あったんでしょ。」
ナナセの言葉に、カンノがはっとした顔をした。
「ねえ、普段は大人しいのに、妙に明るくて元気がいい時がtたびたびあったよね。あれ、本当にヒナだったのかな。」
カンノの他の4人が、瞬時にカンノを見た。一斉に見つめられ、カンノはちょっとたじろいでから続ける。
「例えば、ホントはヒナはとっても身体が弱くて、でも、ホントは元気にしてたかったから、生霊みたいのが抜け出して、あんな風に振舞っていたの。ホントは自分でアサギたちを呼びたかったけど、実はタシマがヒナに頼み事をされた時には、ヒナは死にそうだったとか。」
興奮気味に語ってから、カンノははっとして口を押えた。
「ごめん、不謹慎だね。」
「それがホントだったら、益々オカルトじゃない。」
アサギが小さなため息を吐くと、ナナセが首を捻った。
「でも、ヒナがいつも同じヒナじゃなかった、ってのは、何か納得いく気がする。」
ヒナは、アサギのことが好きだった。アサギは、まっすぐな性格で、物言いがかなり辛辣な女子だった。ただ、良いと思ったものは褒めるし、良いと言う。正直だったのだと思う。
僕も、アサギが好きだった。
ヒナがアサギを好いていたのは、そのすっきりとした性格に惹かれて。だが、僕はアサギの外見が好きだった。僕は、アサギの内面が好きだと言えるほど、アサギと付き合いがあったわけではないし「好き」というのも、遠くから見つめるだけの憧れに過ぎなかった。それに対し、ヒナの「好き」は、アサギの内面までよく見つめた上での「好き」だった。……そんな気持ちの差や、アサギとの距離の差について、僕はヒナに劣等感を抱いていた。
ヒナは、その美しい見目で多くの女子に好かれていたし、落ち着いた物言いは、自分よりも遥かに大人びて見えた。そうした、人としての魅力の差も、僕をより一層小さくしてしまっていた。
ただ、ヒナにはむらがあり、普段の落ち着いたヒナと、明るく活発な雰囲気のヒナとが混在していた。後者の時のヒナは、よく動き回り、スポーツを好む。そんな時、ヒナが遊び相手に選ぶのは、サイキが中心となっているグループだった。嫌な言い方だが、いわゆるヒエラルキーが上位のグループ。みんなから一目置かれている、イケメンばかりのグループだった。その時のヒナに、僕は近づくことができなかった。
普段のヒナは、屋外を好まず、休み時間には図書室で本を読んだり、音楽室のピアノを弾いたりして過ごしていた。そんな時に一緒にいるのは、大抵僕だ。僕は、目を伏せて文字を追うヒナの横顔に見とれたり、卑屈な気分になったりしながら、彼の隣にいた。
あの日のヒナは、明るいヒナだった。それなのに、僕はヒナに声をかけられ、学校の裏手にある神社に赴いた。
「ユイ、お願いがあるんだ。」
ヒナは、台座の部分が苔で覆われた鳥居の前に立つと、僕を振り向いた。
「俺、もうすぐ学校に来られなくなるかもしれない。そうしたら、カナを俺の家に連れて来てくれない?」
「え?」
僕は、ヒナが言ったことの意味を咀嚼しようとした。ヒナが何を言っているのか、よくわからない。
「何で僕が?」
「えっと。」
ヒナは、少し首を傾げて、考え込んだ。
「本当のことを、伝えたいんだ。」
本当のことを伝える?ヒナがアサギを好きってことを?
「自分でやってよ。」
ヒナは、僕がアサギに近づけないことを知っているはずだ。それなのに、なぜわざわざ僕に連れて来いなんて言うんだ。好きだと伝えるなら、僕抜きでやってほしい。
僕は、普段以上に卑屈な気持ちになっていた。
ヒナは、そんな僕の様子をじっと見つめた。その表情がひどく悲しそうで、僕は一瞬怯んだけれど、アサギと親しくもない僕がヒナの告白の仲立ちをするなんて、おかしい。その時、僕はそう感じて、つい言ったのだ。
「僕に関係ないだろ。」
その時、ヒナは一瞬目を見開いてから、顔をくしゃりと歪めた。
「ユイにも、伝えたいんだ。」
振り絞るような声で訴えるヒナの、その涙を見るのが何だか怖くて、僕は彼に背を向けた。
意味がわからなかった。ヒナがアサギを好きだと、僕に伝えてどうなる?アサギの目の前で、わざわざ僕にそれを聞かせるつもりなのか?
勝手に、二人だけでやってほしい。
次の日は1学期の終業式で、ヒナは学校に来なかった。そして、夏休みになっても、ヒナに会うことはなかった。
新学期に学校に行くと、4年生教室の空気はざわざわとしていた。それも、賑やかさとは違うざわめきに満ちていた。
ヒナは、夏休み中に死んでいた。それも、なぜか東京で。
「遅い。」
腕組みをしたナナセが、非難を込めた目で僕たちを見た。僕は、多分曖昧な笑みを浮かべていたんだろう。それに気づいたナナセが、にやにやするなと僕を小突く。
「さっき、窓から顔出してた人は?」
アサギが教室を覗くと、サイキが僅かに首を傾げた。
「俺たちが来た時には、誰もいなかった。」
4年生教室の中には、木製の学習机を組み合わせた大きなテーブルが1つ用意され、その周りにイスが5脚置かれていた。それぞれの席には、席札が用意されている。その席札に記された名に目を留め、僕たちは息をのんだ。
「これ、……」
カンノが、恐る恐る席札を手にする。カンノが手にした札には「マミ」と書かれていた。
「私のことマミって呼んでたのは、ヒナだけだよ。」
僕の札には「ユイ」。タシマ ユイトだから、ヒナは僕のことを「ユイ」と呼んでいた。
アサギの札は「カナ」。アサギの名はカナコだ。ナナセは「ミツキ」。そのまま。サイキはユウタで「ユウちゃん」。
それぞれ、ヒナだけが呼んでいた呼び名だった。僕たちのクラスメートのほとんどは、相手を名字で呼び捨てていた。カンノの「マル」は例外だ。
「ねえ、これって。みんなヒナだけが呼んでた呼び名じゃん。やっぱり、さっきの人はヒナなの?」
カンノがおろおろとみんなを見回す。その時、
「何で、席は5人分なのかな。」
アサギがぽつりと呟いた。
「ヒナもいるなら、ヒナの分の席も必要だよね。」
「ねえ、ちょっと。もう、やめてよ。」
カンノが泣きそうな顔になり、アサギにすがりついた時、サイキがふと目をそらし、あ、と声をあげた。
「黒板に、その答えがある。」
僕たちは、一斉に黒板を見た。
――次の準備があるので、僕は席を外しますが、みなさんはどうぞごゆっくり。
「今日、この会場の準備をしている人がいるんだね。」
僕はなぜかほっとした。
「どういうつもりで、何のためにやってんの。趣味が悪い。」
置かれた席札を指先でもてあそびながら、ナナセが吐き捨てるように言った。
「ナナセずっと不機嫌だね。」
横からアサギが揶揄すると、ナナセは眉間の皺を深くする。
「会場が遠くて来るのが大変な上、妙なことをされて、腹が立たない方がおかしいだろ。」
「そうかな。」
アサギは、指定された席にすとんと腰かけた。
「ねえ、あの日、それぞれ何があったのか、話してみない?」
アサギの言に、ナナセの頬がぴくりと動いた。
「本当は、話したかったのに、みんな避けてたでしょ?」
アサギは、座りなよ、と全員に促す。
僕たちは、ガタガタとそれぞれの席に着き、改めて向き合った。
僕は、1人はみ出したいわゆる「お誕生日席」だった。
みんなが一斉にこちらを見るので、思わず怯んでしまう。
「ねえ、タシマ。まずは、あんたからじゃない?ヒナと1番仲がよかったのは、あんたなんだから。」
アサギの切れ長の瞳にじっと見つめられると、僕の胸は疼いた。あの頃のことを、思い出してしまう。
そう、僕の胸は、痛くて痛くて、堪らない。
