五月のゴールデンウィーク前から体調を崩し、ゴールデンウィーク明けに病院に行ったら肺炎と診断されて入院、色々検査したら他にも問題が見つかって、今も検査中。原因はお酒の飲み過ぎと加齢と運動不足だろう。もう大人しくしろという事かな。

 

さて先日…と言っても大分前なのだが『書物』を読んだ。何の書物?と思うかもしれないが、『書物』という名の書物である。何のこっちゃと思うかもしれないが、そういう書物が有るのである。それは岩波文庫から刊行されている森銑三(もりせんぞう)と柴田宵曲(しばたしょうきょく)の共著の『書物』という書物なのである。くどい?

 

 

岩波文庫だし、第二次世界大戦の終戦前後の話なので、今の人達には少し取っ付き難いかと思うが、面白い所、共感する所も有るので、内容を少し抜粋して紹介しよう。

 

【はしがき 昭和十八年五月下旬 森銑三】

---

「書物」という名の書物を拵(こしら)えるということが何やら愉快そうで、ついそれを引受けて、二人で協同して執筆することにしたものの、考えてみると、書物の名前が「書物」では、生まれた子供に「人間」という名が附けられたようで、第一呼ぶのにも具合が悪い。

---

 

【「書物」という書物】

---

書物は至るところに存在している。しかしながら書物のことを書いた書物は少い。西洋にも少いそうである。その少い書物を一冊作ることとなった。

---

 

森銑三は書物は好きだが、一向に書物を買わないし、物を書く人間で自分くらい書物を持っていない者も少いかもしれないと、変に自負している所が面白い。仕事で書物が必要なら、大抵は図書館で事足りたからだそうだ。しかし書物を愛好する精神は人後に落ちないつもりでいる、一冊でも多く良い書物を知りたい、良い著者を知りたいという気持ちは人並み以上に強いと思っているそうだ。今私は中国は上海に暮らしているが、もし日本で暮らしていたら、私も図書館を使うだろう。本を買うお金を節約できるからね。そして図書館に無くどうしても見つからない本だけ買うだろう。

 

【書物に対する心持】

---

どのような下らぬ書物でも、何か一つくらいは取り柄があるものだといった人がある。事実その通りであろう。よしまた今日の眼で見て全然取るに足らぬ書物と思われるものも、後にはそれがその時代を語ってくれる貴重な資料となる。書物は大切に取り扱いたいと思う、また取り扱うべきと思う。

---

 

前者については、そう思う程、私の心は広くない。後者については、そう思うが、今"物"としての本はあまり売れない世の中なのではないだろうか?雑誌はWebサイトで、小説はタブレットPCで読む人が多くなっているのではないだろうか?まぁしかし、今はレコードがまた流行っているようだから、"物"としての本もまた皆が手に取る時代が来れば良いな、と思う。本は単に活字を読むだけでなく、装丁や挿絵、紙の手触りも楽しむものだと思うからね。

 

【書物過多の現状】

---

しかしながら一面には、あまりにも書物が多過ぎる。そのために勢い粗末に扱うことにもなる。それもまたやむをえないことなのかも知れぬ。書物の出版量の激増しているのに反して、その実績は往昔(おうせき)に比して下落して来ている。近来は殊(こと)にその傾向が甚(はなはだ)しい。書物の氾濫ということは要するに凡書の氾濫を意味しており、千百の新刊中、一、二の良書を見出すことが困難とせられる。ただ售(う)らんがための、その場限りの書物があまりに多過ぎる。さような書物がいかに多量に生産せられようとも、それは国の文化の向上を意味しない。さような書物に敬意を以て対する気持の起らぬのもまたやむをえぬことである。書物の粗末に扱われるのも当然というべきかも知れぬ。

---

 

これは私も同感である。私は中国は上海に住んでいて、中国人と結婚して子供を儲けてからは、帰国時に趣味だった古本屋巡りはできなくなった。偶に街の書店に入ってみるが、一通り見ても私が読みたいと思う本は殆ど無い。故、帰国前にAMAZONで探して通販しておくのだが、AMAZONでもなかなか読みたいと思う本が見つからなくなってきた。今の私は岩波文庫緑の随筆集か短編集を読む事が多いのだが、出品されている本の中で読みたいと思う本は、もう殆ど買ってしまった。文庫本の最後には目録が有って、私はそれを読んで次は何を読もうかな?と考えるのが好きなのだが、今の私が読みたい本は古本の目録の中に有る今は復刊されていない本である。古本を探そうにも、今後いつ古本屋巡りできるかわからないし、その時は何歳になっているのかもわからない。いつ行けるかわからない古本屋巡りのために足腰を鍛えて健康でいるようにしなくてはならないな。本に限らずレコードもそうだが、店に入って何気無く物色していた時に、思いがけず探していた物が見つかった時の喜びをまた味わいたいものだ。

 

【解説 中村真一郎】

---

又、「良書の識別」の項で、その「いわんと欲するところを過不及なく表現している、了解しやすい、見飽のしない文章」を推奨しているのを読んで、私は直ちに、第二次世界大戦後、間もなく、熱海の疎開先に志賀直哉さんを訪れた時のことを思い出した。その時、志賀さんは私に向かって、「君の小説は一頁と読めないね。」と、上機嫌で言い、「ぼくは文章は、どう削るかを心掛ける。君のやり方は、どこまでも書き込んで、膨らませて行く手法で、プルーストだ。」と付け加えた。私はプルーストと一緒に、私の文章が否定されたのを、プルースト信者であるために、殆ど志賀さんに賞められたような気がした。そう言えば、同じ時に、「志賀直哉を一番えらい作家だなどと思う奴は、バカだ。スタンダールなどの方が、ずっと優れているじゃないか」と言い放つ志賀さんの顔を、私は呆然と見上げるばかりだった。「文章のお手本は?」という私の質問に対して、志賀さんは、意外にも「ラフカディオ・ハーンだね」と答えた。成るほど、ハーンの英文は平易で簡素な中に、一種の甘美さを湛えていて、青年時代の志賀さんの好個の見本だったのだなと、納得がいった。

---

 

私は志賀直哉の"文章をどう削るかを心掛ける"という考え方が好きだ。難しい事だけどね。また、私は日本のテレビを見ないので、NHKの朝の連続テレビ小説の『ばけばけ』を観ていないが、ちょっとラフカディオ・ハーンの著書を読みたくなった。

 

共感した内容を抜粋して、それに対して私が思った事を書き出して行くとキリが無いので、この辺で止めよう。

 

この本は森銑三と柴田宵曲の共著だが、私は森銑三の方が"書物"に関する事を雑学的に広範囲に捉えて、且つユーモアを交えながら書いているように感じる。

 

ところで、このブログの内容は手帳のメモに基づいて書いているのだが、文字を書くという事は漢字を忘れていないか再確認する事ができるな、と改めて思った。パソコンやスマートフォンだとうろ覚えでも漢字変換すれば直ぐに漢字が出て来るからね。

 

また、植草甚一のスクラップブックのように、手書きの文章をそのまま本にしてしまうのも味が有るな、と自分のメモを読み返している時に思った。これはデジタルでタブレットPCで読んでも面白くないだろうね。

 

偶にはこのような本を休みの日に喫茶店でコーヒーでも飲みながら読んで、昔に思いを馳せながら、今だったらどうかな?等と思いに耽るのもまた一興かと思う。

 

このブログもちょっと難産だった。自分のメモを見ると途中で二ヶ月間が空いていた。書ける時は一気に書けるんだけどね。まぁ、そんな時も有るよね。