カタルーニャ国際賞授賞式に置いて村上春樹さんが行ったスピーチに深く感動しました。

「非現実的な夢想家として」

原文はこちら

今回の大きな震災を受けてご自身のお考えを述べておられます。

特に原子力発電に関する村上さんの思いがとても強烈です。

世界的な作家であるからこそ言葉のチョイスがとても新鮮で、胸に響きます。

根本的な原因の部分、今回の事故の根幹にあるのが「効率」である、というお考えについて、とても共感しました。

全文について賛同するわけではありませんが、深く感動した点を何点か下記に抜粋します。

あらかじめ申し上げますが、私は「原発反対論者」というわけではありません。

しかし、今後は再生可能代替エネルギーにシフトすべきであると強く思っています。



「非現実的な夢想家」

【中略】



これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。



【 以下略 】


私たちの生活に欠かせない「電気」の大部分をしめる原子力発電について、それを享受してきたわたしたち一人ひとりが、今後いかにあるべきかしっかりと考えていかなければならないと思います。

先日関西電力から15%節電目標が出されました。

「原発をとめると私たちの生活の中の【効率】が15%落ちます」

というメッセージでしょうか。

15%という数字が正しいのか。

そもそもなぜこんな事態になったのか。

私たち一人ひとりが今一度しっかり考えて次のエネルギーとその「負担」を自覚していかなければいけません。

上記に抜粋していない部分で村上さんのスピーチの中にもありましたが、日本人は自然と共存して生きてきました。

だからこそ世界中のどこよりも再生可能な自然エネルギーにシフトしていくべきだと思います。