衆道 | 横山歯科医院

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[衆道]

(Wikipedia)


衆道(しゅどう)とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本に
おいての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態。別名「若道」
(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)。

平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、
その「主従関係」の価値観と融合したとされる。



<戦国時代:戦国大名の家中における男色>
戦国時代には、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。
  ・織田信長と前田利家、森成利(蘭丸)ら
  ・武田信玄と小姓「春日源助」
  ・伊達政宗と只野作十郎
  ・上杉景勝と清野長範
などが有名な例としてあげられる。
武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、例えば江戸時代中期に
書かれた「葉隠」にも男色を行う際の心得について説く一章がある。



<江戸時代前期~中期:男色文化全盛・庶民への広がり>
江戸時代に入ると男色の道は、「若衆道」より取られた「衆道」と呼ばれ、
また「若道」とも呼ばれた。
陰間遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁
栄した。

衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、『東海道中膝栗毛』には
喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられている。

『好色一代男』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女
3,742人。小人(少年)のもてあそび725人」と書かれている。

また歌舞伎の白浪五人男の名乗りの場面に、弁天小僧が寺の稚児であった
前歴を舞台で物語る場面が盛り込まれるなど、日本においては近代まで、
男色は倒錯的行為、少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為と
見なされることはなかった。



<江戸時代後期~明治時代:男色文化は衰退へ>
明治維新以降にはキリスト教的な価値観が流入したことによって急速に異端視
されるような状況となるに至った。