ディレクター業 | ヨコオタロウの日記
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神々と肩を並べるにはたった一つのやり方しかない。
神々と同じように残酷になることだ。
カリギュラ / ジャン=ポール・サルトル



「今年を振り返って」という日記を書こうとしたけど、ニーア関係の話(未公表で書けないようなヤツ)が多かったので中断。というか、今年はずーっとニーアでした。

ということで、内容変更。



以前の日記に書いた気がしますが、僕にとってゲームディレクター業っていうのは「作品の親になる」という仕事です。今日はそんな話を思い付くままにダラダラと。



以前、25時にMA作業を終えてスタジオから帰宅しながら考えていた事。

MAってのは効果音や音楽を動画にくっつける最終プロセスの事で、本来はゲームのディレクターの職域じゃないと思うんですが、いろいろあってチェックだけはする事になったんです。言わなきゃいけないところは言わないとダメ。だけど、船頭多くてなんとやらにならないように出しゃばらないのも必要。胃が痛い。

納期や空気を無視して無神経に要求を言い続けるのは、ある種の才能だと思います。
映画にしてもゲームにしても有名なディレクターさんにエキセントリックなヒトが多いのはそういう事なんだと思います。



僕にとって「ディレクター(親)の責任」というのは、あらゆる事を廃して、製品が最高である為に、お客さんに届くために努力するということです。



努力と言うと、長時間寝ずに働いたり、汗をかいたり、誰かをかばって罪を背負ったりする事をイメージする人がいるかと思いますが、僕は違います。そんなのは別に辛くない。

僕が本当に、心の底から努力する必要があるのは「汚い事」をする時です。
ウソをついたり、一度言った事をひっくり返したり、社内政治を裏でコソコソ努力したり、偉い立場を利用して誰かをクビにしたりする事です。

それは自分のモラルに反する。人としてどうかと思う訳です。
だからと言って「違う」と思うものを自分の作品(子供)に与える訳にはいかない。どんな汚い手を使っても、子供の為に最善を尽くす。それが僕の責任の取り方です。



自分の手の届く範囲をちゃんとやる、というのは常識。
手の届かない部分をなんとかする、というのは非常識。

経営者がゲームの中身に口を出したり、
絵描きが音楽の事に口を出したり、
外注子会社のディレクターが宣伝の内容に口を出したり、
(本当スクエニは優しい人が多い……)

職域を超えてそういう事を言う非常識な人間は、嫌われます。
モンスターペアレンツと同じです。



逆に言うと、そうやって自分の手を汚している事の理由をモノ作りに転嫁しないとやっていけない。製品にベッタリと依存しちゃってるのかもしれない。
もともと、社会生活や人間関係を上手くこなす事が出来ないから、モノ作りのせいにして逃げ込んでいる。

「周りのみんなを大切にしながら全て上手く回すんだよ」って人も居ると思います。でも、それは自分には無理。そもそもゲームがあろうがなかろうが周りのみんなを大切になんか出来ない。放っておいても、ウキウキした様子の街を見ながら「ギギギ……このリア充共め!」とか思っているに違いない。



結論 「イケメンと金持ちに死を!」



みなさま良いお年を。