野良猫な女子。野良犬な男子。 | ヨコオタロウの日記
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私が猫と戯れている時、私が猫と遊んでいるのだろうか。
それとも猫が私と遊んでいるのだろうか。
/ ミシェル・ド・モンテーニュ



今日の日記は、書きかけで随分長いことメモのまま放っておいた日記です。
理由は、誤解されそうだから。

でもまあ、いいや。知るか。



道路に猫の死体を見つけた。
車に轢かれて、乾いて、もう猫だかゴミだか判らないような何かだった。
いやギリギリで猫だと判ったけれど。

なんとなく、メス猫だと思った。



いきなりで申し訳ないけれど、彼氏の居ない女子は野良猫みたいだと思う。
今の時代でも、女性に対する「彼氏が居ない」「結婚していない」という事に対しての風当たりは強い。
少なくとも男よりは。

男は一人でも生きていけると思われているのに、女は誰かが付いていないと不幸だと思われる。何たる偏見。



同じように、無職の男子は野良犬みたいだ。

こちらはさらに風当たりが強い。
そもそも男の「家事手伝い」なんてまず聞かない。仕事を持っていない男は全て「無職」というシールを貼られ、差別され、狩られる訳だ。
捕まった行き先は保健所しかない。

今の世の中、野良犬は存在すら許されない。



だけれど、思う。

どんなに幸せに結婚した女子も、いつかは一人で死ぬ。どんなに言葉で飾っても、誰かと一緒に死ぬ事は出来ない。
仕事を持っている男も、やがてその仕事が出来なくなる。フリーだろうと会社員だろうと、いつかは仕事は貴方を見捨てて、貴方は死ぬ。



僕等が寄りかかっている安心感なんて、そんなもんだ。
飼い猫である事に甘えても、野良犬であることを誇りに思っても、いつかは同じゴールにたどり着くハメになる。多少早いか遅いかだけだ。

いくら誤魔化したって、いつかは野良猫と野良犬になって死ぬわけだ。



そう考えているうちに、人間っていうのは何か(財産とか友達とか恋人とか)を増やす為に生きているわけではなくて、いつかゼロになるまでの、それこそ傷ついたり失ったりしていくプロセスこそが人生と呼ばれるモノの本体なんじゃないかと思うようになった。



あの死体の猫は、街のボスのオス猫と恋して、雌猫たちの羨望の視線を一身に浴び、沢山の子供を育て、子供達の成長を見届け、老いて目が見えなくなり、そして道路で轢かれたのかもしれない。

そんな想像とは全然関係無く、毎日の食べ物に苦労し、泥とクソまみれの水を飲みながら、ある日ネズミを追いかけて飛び出した先で車に轢かれて死んだだけなのかもしれない。

僕の想像がどうであれ、あのゴミみたいな死体の猫の人生に僕が価値を付ける事なんて出来ない。

あれは、僕の人生と同じだから。
轢かれていくつかに分解された猫の死体は、自分達の未来の姿だから。
そう思った。