人生には二つの悲劇がある。
一つは心の願いが達せられないこと。
もう一つはそれが達せられること。
/ バーナード・ショー
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前回の続き。
今回も大した事書いてないので注意。
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振り返ってみると、僕にとって「ゲームってスゲー!」と思える大きな要素に「現実世界の模倣」という点があったように思います。
ゲームはその黎明期からずーっと現実世界に届こうと必死で試行錯誤してきました。
貧弱な音源でロックやクラシックを鳴らし「おお、クラシックに聞こえるよ!」とか、無理矢理ラスタースクロールを駆使して3Dに見立てたレースゲーム(ポールポジションとか)を作ったり、スーファミカートリッジに強引にチップを乗せて「スーファミで立体すげえ!」とかやってみたり。
もちろん、それを今やっても全然「スゲー」とは思えません。それは誰も足を踏み入れていない新雪に飛び込むような体験だったから良かった訳で、今となってはガチガチに踏み固められた表現になっていますから。
そして、PS2のあたりで僕の中の「スゲー!」は停止してしまいました。
RPGは3Dのフィールドとキャラに、フルボイス。美麗なグラフィックにリッチな音楽。
あとはひたすら描画や容量が増えるだけ。そこに僕の「スゲー」は無い。
物理演算なんかがブレイクスルーになるかと思いきや、素人がプレイした感覚だと「今までとあんまりかわんねーなー」程度の変化しか(僕はに)感じられませんでした。
では何故そうなってしまったのか?
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仮説1 「老人はいつだって過去を振り返る」説
そんなのは多感な時期にゲーム黎明期を過ごしたから言ってるだけだろう。今の若い人は彼らなりに『スゲー』を感じているよ。ゲームは死んじゃいない。お前の感性が死んだんだ!
……それは結構。自分の感性が死んだ事は悲しいけれど、ゲームファンとしてはこの説であって欲しいです。
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仮説2 「現実の模倣はもう大体終わった」説
テレビや銀塩カメラが、ある時期を境に素人には差が判らなくなったのと同様に、現実世界を認識させる為の技術が、ゲームの上で十分に成長してしまったのかもしれない。
絵画は「投影法」「写実主義」「退色しない絵の具」あたり(ルネサンス期?)で、技法としての成長は終了した。記録的な役割も写真機の登場によってほぼ死んだ。残されたのは「現実を描写しない」絵画だけ。
同じように、ゲームも成熟期にさしかかりつつあり、ゲームによる現実世界の実現は死に向かっている、説。
現実の模倣から「ゲームなりの独自の表現」を閉塞状況の突破への鍵と考えている向きもいらっしゃるかと思いますが、「印象派」や「キュビズム」みたいな例を見ると、残念ながら袋小路のような気もします。
現実世界に比べて共感を呼ぶ素養が低すぎて「スゲー!」と思える人が限られてしまうからです。
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日本での携帯ゲームの隆盛を見ていると「もうゲームなんてものはこの程度でいいや」感が蔓延している気がします。
ハードやシステムの限界を超える事を期待せずに、一定の表現で済ませてしまう。そんな姿を見ると「仮説2」が正しいように感じられるんですよね。つまり、ゲームに表現的な革新性はもう期待されていない(または革新性が無いから期待されていない)。
ぶっちゃけ、CGツールやパソコンも似たようなもんだと思います。
どのソフトを買っても似たような表現力を持っているし、Mac でも Windows でも PS3 でも 360 でも正直大差ない。
成熟といえば聞こえはいいですが、単に飽きて平均化された世界。そんな風に感じませんかね?
現実世界の模倣を終えて、飽きられたゲーム。
そんなゲームが向かう次のタームは?
結論を考えないまま呑みながら書いてもなんとかなるもんだなと思いつつ、(続く)