私がまだ仕事をしていた頃のこと。
とある事件の参考人から事情聴取するため、早朝、参考人方近くのコンビニエンスストア駐車場に捜査車両を停めた。
もちろん私1人ではなく、後輩のKくんも一緒だ。
Kくんというのは、他署から異動でやって来た、その年から私と一緒の班になった若手で、歳は20代後半と、若手にも関わらず刑事課に配属されてから5年も経つという恵まれた異動を経験している。
刑事課は競争率が激しく、努力が足りなかったり運が悪かったりすると、入ることのできない狭き門なのだ。
Kくんは、パッと見た感じでは、スラリとした細身の小栗旬似のイケメンで、
『すごく一生懸命に仕事をやってくれそう❤️』
と、相談に来た女性から言われたこともある奴だった。
あくまでも、見た目だけはシュッとした感じのイケメンで、顔も小さく、スラッとした細身なので、スーツがよく似合う奴だった。
参考人は、いつも午前8時過ぎに家を出ることが確認できていたため、その少し前に家を訪ねるつもりだった。
駐車場に車を停めた途端、Kくんが
『すみません、よこしょう部長、朝めし買ってきていいっすか』
と聞いてきた。
特に断る理由もないため、
『んあ、いいよ。』
と、気のない返事を返した。
(私は巡査部長だったため、◯◯部長と呼ばれていた。ちなみにKくんは巡査長だ)
Kくんが、運転席を降りてドアを閉めようとした時、ふと思いついたことがあった。
『あ、そうだ。スポニチ買ってきてよ。有ったらでいいから。無かったら別にいいからさ』
その当時、何の事件か忘れたが、芸能界を賑わす暴力団関係の事件があった。
当時の私は暴力団対策の刑事だったため、その事件に興味があったのだ。
署を出発してコンビニに到着するまでの車内でも、Kくんとその事件について話題にしていた。
まだ8時には1時間近く時間があったため、普段買ったことのないスポーツ新聞でも買って、その事件の記事が読みたいと思い付いたのだ。
スポーツ新聞など、あまり読んだことがなかったが、スポニチ(スポーツニッポン)なら、芸能面が豊富だったような記憶があった。
するとKくんは、耳を疑うようなことを聞いてきた。
『あ、はい。何個必要ですか?』
『…え、いや、1個だけど…』
「何個」と聞かれたため、私もつい1個と答えたが、この時に気付くべきだったと後で後悔することになる。
普通、新聞は1部だし、同じ新聞を何部も買う奴などいるはずがない。
Kくんの返事は色々とおかしかったのだが、普段から彼の奇矯な振る舞いに翻弄されていた私は、この時に表出した「歪み」を見逃してしまった。
そして5分ほど経過し、買物袋を提げたKくんが店舗から小走りで車内に戻ると、勢いよくドアを閉めて私に言った。
『ありましたよ、よこしょう部長。3個入りのヤツがありました。』
と言って、

食器洗剤用のスポンジ

を手渡してきたのだ。
3個入りのヤツだった。
私は、3個入りのスポンジをパントマイムのロボットのようにぎこちなく受け取ると、そのブツを眺めた。
『……………………。』
20年以上警察をやっていると、本当に色んな経験をする。
冗談ではなく生命の危険を感じたこともあった。
そういう意味では、一般的な日本国民の中では、貴重な経験をした方なのかもしれない。
だからというわけではないが、私は、どのような緊急事態になったとしても、常に客観的に自分を観察するようにし、平常心を失わないように心がけてきた。
それが完璧に出来ていたとは言わないが、及第点くらいは付けてあげても良いだろうと自惚れていた。
だが、何の心の準備もしていない時に、こういう種類の予想だにしなかった角度からの事態に直面したとき、意味不明すぎて思考が現実に追いつかず、「平常心」どころか、世界の時間が停止したかのような感覚に陥ってしまった。
ヤクザが大騒ぎするガサ現場、血まみれの被害者の隣で被疑者を現行犯逮捕したとき、ポン中が運転する車を捜査車両にぶつけられたとき、2メートル近くある大暴れする黒人を数人がかりで制圧したとき…どんな時でも私は、フル暗記した般若心経を心中で唱え、「明鏡止水」の心境でもって常に冷静であろうと務めたものだ。
しかし、この時のような理解不能な事態に直面したとき、そのような経験をいくら積もうが意味がないということを知った。
計測したわけではないが、このとき、世界の時間は確実に停止していたはずだ。
私は、しばらくの間、台湾製のスポンジに目を落としたまま時間停止した。
…やがて、身体機能が正常に動き始め、我に返った私はKくんに言った。
『…え、なにこれ』
『???』
Kくんは、(お望みの物を購入してまいりましたよ!さあ、褒めてくれていいですよ!)と、投げたボールを咥えて戻ってきたゴールデンレトリバーのような顔をしてこちらを見ていた。
私は、やっといつもの調子を取り戻し、優しくKくんに告げた。
『(#゚Д゚) ゴルァ!!俺が頼んだのはス・ポ・ニ・チだわ!なんで今から仕事ってときにスポンジが必要になると思ったんだよ!さっき事件の話しただろうが!スポーツ新聞の記事が読みたかったんだよ、俺は!俺の仕事をなんだと思ってやがる!皿洗いじゃねぇわ!』
『あひゃっ!ス、スミマセン!私も変だと思ったんですよう。なんで今、スポンジがほしいのかなって。
エヘッ』
Kくんとは、こんなヤツである。
私は、Kくんのこうした振る舞いを忘れないため、彼が信じがたい奇行を繰り返すたび、携帯電話にその都度、タイトルを付けてメモっていたのだが、ガラケーからスマホに替えた際、それらのメモは引き継がれなかった。
彼の奇矯な振る舞いは、ほぼ毎週のペースで繰り返されたため、その記録は膨大な数にのぼった。
タイトルを見れば、そのエピソードを思い出すと思うのだが、ガラケーがない今、忘れないうちに、覚えているエピソードだけでも記録しておこうと思った。
前に使ってたガラケーがあったらメモった内容を見れるんだけど、今の私は、左半身片麻痺の身障者。床に有る物を移動させることすら一苦労。
ガラケーを少しずつ探していきたいが、見つかるかどうか…。

おしまい