皆さんが母の写真に
『綺麗だね、美人だね』等など
嬉しいコメントを頂いたので
ちょっと母の話をしますね。
大正6年に米屋の次女として産まれます、存命なら105歳かぁ。
20歳で、父の元に嫁いだのですが
あの時代、当然のようにお見合い結婚
式の日まで父とは2回しか逢ってなかったそうです。《スゲー時代》
父の家も裕福な一家で、姑、舅に可愛がられ、どちらかと言うと、乳母日傘で育って嫁ぎ先でも大切にしてもらって、幸せな結婚生活だったようですが………………。
5人の子供を宿しますが、残念ながら
残ったのは、兄と私の2人だけ。
辛かった時期も経験してるんですね。
私は母が40歳のときの子供で、昔は《シジュウの恥かきっ子》って言われたそうです。
彼女の人生が一変するのは、父が友人の借金の保証人になって、全ての財産を奪われたことから始ります。
父は債権者《ヤバイ怖いお兄さん達》
から身を隠して、母は裁縫の内職で幼い兄と私を育てなければならなくなりました。
私の幼い時の記憶は一日中、着物を縫ってる姿です。針が危ないので側に寄ってベタベタ甘えることが出来ないことが少し寂しかったかな。
しかし、自慢の美人母。
運動会や参観に来てくれるのが嬉しかった
私がデビーしてからは、ずーーーーと一緒に東京で暮らして、月のうち数日大阪に戻ると言う生活を78歳まで続けました
《父と母は別居ってことですね。父は寂しかったのか?羽をのばしていたのか?聞いておけば良かった》
晩年は私の仕事の心配やら、中々子供が出来ない私を気遣ってくれていたと友人から聞きました。
でも、なくなる前に娘に合わせることが出来て良かった。
孫の誕生にとても喜んでくれていました。
父は下戸だったので、我が家にはお酒が無かったんですが、父が亡くなってから
ちょいちょい日本酒なら2合ぐらい
チャラと飲んでいたので、けっこういける口だったようです。
寝る前に白ワインを1杯
『これな、飲むとよう〜寝られるねん、
アルコール依存症になったらこまるわ〜』
『一杯ぐらいならならんわ』と私
とトンチンカンな会話を毎晩してましたね。
母はちょっとは天然だったのかも?
そして、なんといってもオシャレさん。
病に倒れて入院しても、お化粧をして髪をカラーで巻いて身だしなみにはとても気を配ってましたね。
流石にお医者さんから化粧は辞めて下さい
顔色がわかりません、と言われて諦めたようですが。大正産まれはモボ・モガの時代
オシャレ〜~~〜~が当たり前だったんですね。
今回の私の入院でスキンヘッドにしたら
なんだかスッピンの顔が母に似てるような
年をとると親に似るっていいますが、そんなそんな感じで鏡みつめてます。
私も母の年までは生きたいなぁ〜
イヤイヤ人生100年時代
娘の結婚も孫の顔見るためにも鬼退治。
頑張るぞーと新たに思う日です。
長々と書いちゃいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
さぁー明日もいい日になりますように、