今日、8月6日は世界で初めて原子爆弾が

広島に投下された日です。


この日を覚えてる人が

だんだん少なくなった気がします。


そんな事ないやろー!

学校の歴史で習うし


と思うでしょ?


それがね、広島県以外

それほど熱心に

この日のことで平和教育しないのが

現実なんですよね。



私が小さい頃は、

この日は一日中テレビで原爆のことをやっていました。


ほんと、一日中といった記憶なほど。



夏休み帳という、宿題の中にも原爆のことが組み込まれていました。




テレビでは、被爆された人の証言。

犠牲になられた方の安否。

被曝から20年過ぎていたくらいの時代でしたが、

まだ名前が読まれていましたね。




子供だったので、断片的にしか覚えてませんが。


もしかしたら、被爆者手帳の手続きをする為の

証言者探しだったのかもしれません。



被爆者手帳を申請するには2人くらいの証言と証人がいるんじゃなかったかなと。




原爆投下前の広島の平和公園の敷地辺りは、

いくつもの街があり、映画館などもあり、

繁華街だったと父が言っていました。




あの日、8月6日

母は、女学校の学生でしたが、

15歳で爆心地から割と離れた工場に

動員されていました。

ピカッと光ったので、慌てて机の下に隠れたそうです。

ものすごい音がしたので、溶鉱炉が爆発したと思ったらしいです。



目を開けると、工場の屋根がなかったと言ってました。


大きな爆弾が落ちた!

帰らなきゃ!!と

必死で歩いて30キロ近くある家までたどり着いた時には、夕方近くになっていたと聞きました。



母の妹は、13歳で建物疎開に動員されていました。


爆弾での火災を防ぐ為に

密集した住宅を間引く作業です。

柱にロープをかけみんなで引っ張って家を倒す。



13歳ですよ?!


まだ子供なのにそんな大変な作業を

やらされていたんですね…




父は、海軍のお手伝いで動員されていて、

広(大和で有名な呉市の隣)にいて、

免れてたのですが、休暇中の友達が心配になり、

2日後、海軍が支援物資を持って広島に行くトラックに友達3人で乗せてもらい、入市。

残留放射能にて被曝となりました。




広島に大きな爆弾が落ちた!


ということで、母の家では

軍需工場に動員されていた母が

死んだのではないか?!

と、真っ先に思ったそうです。



でも、母はなんとか帰り着いたので

無事を喜んだのも束の間、

末っ子が帰って来ない。


情報が少ししか入らない時代。


それでも、街中がやられたという事を聞き、

居ても立っても居られない祖父母。




じっとしていられない祖父と祖母は、

大八車を引いて夜通し歩いて広島市内に

探しに向かったのですが…


ごった返していて見つかりませんでした。



2日くらい経って近所の消防団から、

収容先らしき場所を教えてもらったので、

また、車を引いて歩いて向かったそうです。



長い道のりを

どんな気持ちで歩いて向かったんだろうか…


怪我をしていないか?

お腹が空いてないか?

寂しい思いをしていないか?


いろんな事を思いながら歩いたんじゃないでしょうか…


もし、傷ついていたら我が子を乗せて帰ろうと、

重い車を引いて夜通し歩く。


必死だったと思います。



祖父母の気持ちになるといつも涙が出ます。






やっとの思いで着いた収容先。


階段の踊り場に寝かされていた我が子。



聞くと、

「昨日の朝にはお水をあげたんですけどね。。。」


乗せて帰る道、何を思いながら歩いたんだろうか…


自分に置き換えると、

たまりません。。。



母の話では、変わり果てた姿の娘を

連れて帰った祖母はそれまで見たことがないほど

狂ったように泣き叫んでたそうです。




そりゃそうですよね…




行ってきます!

と言って、お弁当を持たせて見送った我が子。


あっと思って、顔を両手で覆ったのか、

覆ったらしい部分は綺麗だったけど

手や、頭には包帯がまかれていたそうです。




母と歳が近く、いつも喧嘩ばかりして

その日も、建物疎開の動員なのに

母のお気に入りの革靴を

勝手に履いて出て行った妹。



母は、カンパンを見ると涙が出ると

よく言ってました。

収容先で、妹の枕元には

お水と数個のカンパンが置いてあったそうです。


それを思い出すから、カンパンが嫌なんだと…


祖父母も被爆直後に入市し、

街を歩き回ったので、被爆者になってしまいました。

そのせいなのでしょう。

しばらくして祖母は体調が悪くなり、

ずっと寝ては起きで、母は学校に行きながら

祖父と一緒に家事をしていたそうです。


あまり長生きはできなかったようです。

私が生まれた時には、亡くなっていましたから。


50そこそこで亡くなったんじゃないかと思います。






いろんな話を聞きながら

私は育ったんですよ。



ずっと広島に住んでる人なら、

なんらかの原爆の話を知っていますし、

聞く機会が多いんですけどね。。。



広島からお嫁に来て、

県外の原爆に対する認知度の低さに

驚かされました!!



小学校の先生すら呆れるほどの無知!!




帰省していた実家の新聞に、

平和記念公園の被爆前の様子の写真などが

掲載されていたこともあり、

切り取って夏休みの宿題でスクラップブックを作ったものを先生が見ても、「へー」って感じ。



そのリアクションにもおどろいたのですが、


話をしてみると…


原爆の事に関してあまりにも無知なので

空いた口が塞がらなかったことを記憶してます。






勉強もやけどね、






平和教育はしっかりしなきゃいけないんじゃないですか?




子供達は、次の世界を背負ってるわけですからね!!





先生を目指すなら、

広島なり、長崎に出向いたり、

特攻隊が飛んで行ってた基地なり、

沖縄での話を聞くなり、

どこでも良いから、

戦争で犠牲になられた尊い命の数々を

生で感じてみることもすべきではないかと思いますが。。。



自主的にするか、又は

そういう研修もあって然るべきだと思いますが…




ないんですかね?!




平和ありきじゃないですか?



勉強も、社会も。



広島、長崎の原爆記念日は、


平和教育の一例ですね。


落としたアメリカが悪いと教えるのではなく、


戦争が悪い!


戦争をしてしまったのは、

その時代の教育、社会、政治が悪かったわけです!!


それをちゃんと教えてあげてほしい。


もう、最近では原爆記念日とは、

歴史の一部の「関ヶ原の戦い」的な、

(どんな例えやねん)

そういえば、あったなぁ〜的な

感覚なんですかね?!



それじゃいけないと思いますが…




平和公園の慰霊碑には、

被爆して亡くなられた方々の

名前が書かれた台帳があり、

その名前は毎年書き加えられています。


14年前に亡くなった父も書かれていることでしょう。

そして、母が亡くなれば加わる。


私も被曝二世なので、書かれるのかな?

被爆二世は書かれるのかどうかわかりませんが…





8月6日、午前8時15分




この日はできる限り広島に向かって

黙祷をしています。


都合で、できなければ

できる時間には必ずするようにしてます。






不平不満を言いながらも、

ごく普通に暮らせますように!




平和を祈って、

  


祈って!!




平和を祈って



被爆から、76年目の夏


今日も蝉が鳴き、朝から暑いです。



犠牲者の方々、どうか安らかに…