1985年2月6日。
第一子が亡くなって産まれた日です。

実家から遠く離れて
友達も親戚もいない土地で、
義父、義母との同居

色んなストレスを抱え
妊娠7ヶ月頃から胎児発育遅延症
と言う診断でした。

予定より早く実家に帰り、
里帰り分娩の大きな総合病院で診てもらい、
発育の遅れてる治療として、
通院による点滴を始めましたが、
その点滴が全て身体に溜まっていきました。

尿が出ないのです。

高血圧、タンパク尿、浮腫
全ての症状が+++
重度の妊娠中毒症と診断され、
入院して絶対安静となりました。

入院してからというもの
状態がどんどん悪くなり、
吐き気が常に襲い
頭痛もハンパなかったです。

とうとう血圧が193/138にもなり
目の血管が腫れて
目が見えなくなりました。

部屋にいた別の妊婦さんを
他の部屋に移し
窓に暗幕を張って
ドアには面会謝絶の札

9ヶ月に入ったところでした。
目が見えなくなる少し前に
陣痛が起きかけたのを

薬で止めましたが、
とうとう2回目の陣痛が始まり
私の状態があまりにも悪いので
止められなくなりました。

先生は夫に
母子ともに危ない状態です

子供は諦めますので、妻を助けてください
と夫。

僕は産婦人科医なので
両方助けなければいけません。
最善を尽くしますが、もしものこともあるかもしれませんので覚悟をしてください

と言われたと後になって聞きました。

目が見えないので、光が当たると失明したり
弛緩を起こす恐れがあるそうで
分娩室でもタオルで光が当たらないように
目隠ししたまま。

逆子だったけど、そのまま産まれたようでした。

産んでスーッと楽になりました。
でも、赤ちゃんの泣き声が聞こえません。

小さいから泣かなかったのかな?
分娩台の上でそう思ってました。
死産してたなんて
全く考えもしませんでした。

体が楽になった反面
ものすごい眠気が襲ったてきたので
寝るね
と看護師さんに言ったら、
ダメ!ダメ!!起きて!起きて!!
寝たらダメよ!!!
と大きな声で怒鳴られました。

早期胎盤剥離で1400ccもの大出血の後。
意識が遠のいてたらしいです。

本来なら輸血すべきなのですが、
妊娠中毒症が酷く、
腎臓が悪くなり過ぎてたので、
できませんでした。

後で、保険請求の資料として、
先生の書いてくださった診断書を見ると
分娩の2〜3日前から胎児の心音が
微弱で母子共に大変危険な状態だったみたいです。

帝王切開をしたくても血圧が高過ぎるので
麻酔科が受けてくれないだろうしな

と看護師さんと話してるの
聞こえたのを覚えています。

もう手の施しようのない状態での出産でした。

出産直後から後から皮肉にも
私の身体はどんどん楽になってきましたが、
赤ちゃんの様子が全くわからずじまい。

私の目も見えないまま。

母に聞いても、先生や看護師さんに聞いても
小児科の集中治療室にいると言われるだけ。

三日後にとうとう
死産だったことを聞かされました。

すぐに言うと、また血圧が上がると大変なので
隠していたそうです。

その間に、赤ちゃんは実家に連れて帰り
お葬式を出してたみたいです。

9ヶ月で産まれても
1135グラムしかなかった我が子。

女の子だったそうです。

小さな我が子は
割り箸のような細いお骨だったそうです。

私に内緒のうちにお骨になってしまったので
抱いてあげる事も
顔を見る事もできませんでした。
お寺さんに
釈尼 珠光
と付けていただきました。


生きていたら36歳。
どんな大人になっていたのだろうか…

その子は、自分の命と引き換えに
私を助けてくれたんだと思っています。
 
お母さんが守るべきなのに
守ってあげられなくてごめんね。
私があまりにも苦しむから
守ってくれようとしたのかな?

今日は、美味しいお菓子を
お供えしてあげましょうね。

お誕生日おめでとう。