ちょっと個人的な疑問を書いてみようと思います。
そこで今回は『本当に価値あるものを求めて、どこまでも追っていく重要性』について書いていこうと思います。
●通信教育ってどこまで価値があるの?●
今回書きたい疑問の前に、しばらく僕の経緯を書いていこうと思います。
僕は高校生の間、どこかの予備校や塾に1年間お世話になってことはありません。
例えば夏期講習や冬期講習のような講習期間だけお世話になるだけで、他の期間は淡々と自学自習でした。
それもあってか、高校生の頃から参考書・予備校マニアなところがあり、いろんな教科の参考書の情報をひたすら集めていました。
もちろん最終的には、自分が必要とするときにベストなタイミングでその参考書をやっていくためですね。
ただ今とは違ってAmazonなんてない時代です。
もっと言えば、ろくにインターネットにもつながらないような状況です。
ただひたすらに本屋に向かい、本を眺め、善し悪しを見定めていく必要がありました。
今から考えれば非常に原始的な方法ですね…。
でも、そうやって探した教材だからこそ思い入れも持つようになるし、実際にやって力になっていくわけですね。
そういった意味では、このように少々遠回りしているように思えても、それが意外と近道だったりするわけですね。
このように『現地に足を運ぶ』ということは、本屋だけに限った話ではありませんでした。
例えば予備校に短期的にでも授業を受けに行くとき、行くからには少しでも良いものを受けたいと、神戸や大阪で受けることができなければ、積極的に京都にも行きました。
また浪人時代は、意図的に東京の予備校に入り、少しでも本場の雰囲気を感じたり、本場の第一線でやっている講師たちを見たいと思っていました。
もうその頃には『将来予備校講師として働いていくんだ』と心に決めてましたからね。
そういった意味では、かなり習う人には注意を払っていた方だと思います。
そこでやっとこさですが…僕が思う疑問なんですが、今の子たちはこういった『「この人に習うためなら、ちょっと遠出してでも頑張る!」と行った思いはないのだろうか?』ということです。
いや、今の子というよりむしろ、一般的にこういった思いはあまりないものなのでしょうか?
僕の中では同じような括りとして不思議に思っているものがあります。
それは『通信教育』です。
もちろん通信教育の中にも有意義なものはあると思います。
ただ受験の通信教育の場合、たいていの場合は、「問題を送ってくる→添削用紙に答案を書く→毎回違う人に添削される(ここが大事!)→返却」という一連の流れがあると思います。
でも本当に学びたいなら、何で毎回違う人が添削・採点するものを選ぶのか?と思ってしまうんですよね…。
酷いやつなんて、「ビデオで空手を学ぼう!」なんてものもあるようです。
もはや何がしたいのか僕にはわかりません(笑)
それだったら、同じ人にひたすらに見てもらえる環境に力を注いだ方がはるかに価値があるんじゃないかなと思ってしまいます。
正直、現状通信教育は規模が大きくなりすぎて、上記のようなことを達成するのが非常に難しくなってしまっている点は否定できません。
でも、自分の人生です。そこまでのこだわりを持った行動をしてもいいんじゃないかな?と思ってしまいます。
自分的には『良いものを求めるためなら、行ける範囲でどこまででも行く』というスタンスでした。
正確な情報を得るためなら少々の苦労は気にせず、積極的にしていく人でした。
たぶんその本質は今でもあまり変わらないように思います。
だからこそこのような疑問を持ってしまうのかもしれませんね。
特に通信教育を利用されているみなさんはどうですか? 本当に心から満足できていますか?
そこで今回は『本当に価値あるものを求めて、どこまでも追っていく重要性』について書いていこうと思います。
●通信教育ってどこまで価値があるの?●
今回書きたい疑問の前に、しばらく僕の経緯を書いていこうと思います。
僕は高校生の間、どこかの予備校や塾に1年間お世話になってことはありません。
例えば夏期講習や冬期講習のような講習期間だけお世話になるだけで、他の期間は淡々と自学自習でした。
それもあってか、高校生の頃から参考書・予備校マニアなところがあり、いろんな教科の参考書の情報をひたすら集めていました。
もちろん最終的には、自分が必要とするときにベストなタイミングでその参考書をやっていくためですね。
ただ今とは違ってAmazonなんてない時代です。
もっと言えば、ろくにインターネットにもつながらないような状況です。
ただひたすらに本屋に向かい、本を眺め、善し悪しを見定めていく必要がありました。
今から考えれば非常に原始的な方法ですね…。
でも、そうやって探した教材だからこそ思い入れも持つようになるし、実際にやって力になっていくわけですね。
そういった意味では、このように少々遠回りしているように思えても、それが意外と近道だったりするわけですね。
このように『現地に足を運ぶ』ということは、本屋だけに限った話ではありませんでした。
例えば予備校に短期的にでも授業を受けに行くとき、行くからには少しでも良いものを受けたいと、神戸や大阪で受けることができなければ、積極的に京都にも行きました。
また浪人時代は、意図的に東京の予備校に入り、少しでも本場の雰囲気を感じたり、本場の第一線でやっている講師たちを見たいと思っていました。
もうその頃には『将来予備校講師として働いていくんだ』と心に決めてましたからね。
そういった意味では、かなり習う人には注意を払っていた方だと思います。
そこでやっとこさですが…僕が思う疑問なんですが、今の子たちはこういった『「この人に習うためなら、ちょっと遠出してでも頑張る!」と行った思いはないのだろうか?』ということです。
いや、今の子というよりむしろ、一般的にこういった思いはあまりないものなのでしょうか?
僕の中では同じような括りとして不思議に思っているものがあります。
それは『通信教育』です。
もちろん通信教育の中にも有意義なものはあると思います。
ただ受験の通信教育の場合、たいていの場合は、「問題を送ってくる→添削用紙に答案を書く→毎回違う人に添削される(ここが大事!)→返却」という一連の流れがあると思います。
でも本当に学びたいなら、何で毎回違う人が添削・採点するものを選ぶのか?と思ってしまうんですよね…。
酷いやつなんて、「ビデオで空手を学ぼう!」なんてものもあるようです。
もはや何がしたいのか僕にはわかりません(笑)
それだったら、同じ人にひたすらに見てもらえる環境に力を注いだ方がはるかに価値があるんじゃないかなと思ってしまいます。
正直、現状通信教育は規模が大きくなりすぎて、上記のようなことを達成するのが非常に難しくなってしまっている点は否定できません。
でも、自分の人生です。そこまでのこだわりを持った行動をしてもいいんじゃないかな?と思ってしまいます。
自分的には『良いものを求めるためなら、行ける範囲でどこまででも行く』というスタンスでした。
正確な情報を得るためなら少々の苦労は気にせず、積極的にしていく人でした。
たぶんその本質は今でもあまり変わらないように思います。
だからこそこのような疑問を持ってしまうのかもしれませんね。
特に通信教育を利用されているみなさんはどうですか? 本当に心から満足できていますか?